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人間は“生きもの”だということを忘れないようにしたほうがいい。東京都市大学 准教授/三田の家LLP 代表・坂倉杏介さん【インタビューシリーズ「時代にとって大事な問いを問う」】

ROOM

シリーズ「時代にとって大事な問いを問う」は、ミラツク代表・西村勇哉がインタビュアーとなり、「時代にとって大事な問い」を問う活動をしている人たちにお話を聞くオリジナルコンテンツです。

第10回は、東京都市大学 准教授であり、コミュニティマネジメントを専門に研究と実践を行なってきた坂倉杏介さんにインタビュー。慶應義塾大学で教員をされていた頃に、東京・港区の三田商店街振興組合とともに運営されていた「三田の家」、港区と慶應義塾大学が共同で運営する「芝の家」などのプロジェクトを通して、坂倉さんのお名前を知った方も多いのではないでしょうか。

今回は坂倉先生がこうした場づくりに至るまでのこと、「こうあるべき」というルールに縛られたこの社会のなかに「ゆるんだ場所」をつくることによって見えた「豊かさ」についてお話を伺いました。本来的にはとても多様な“生きもの”である私たちは、どんな「場」にいることを望んでいるのだろう?という問いをもちつつ読んでもらえたらうれしいです。

(構成・執筆:杉本恭子)

坂倉杏介(さかくら・きょうすけ)
東京都市大学都市生活学部 准教授/三田の家LLP 代表
1972年生まれ。1996年、慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業。1996年〜2001年、凸版印刷株式会社。2003年9月慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構専任講師などを経て、2015年4月より東京都市大学都市生活学部准教授。専門はコミュニティマネジメント。多様な主体の相互作用によってつながりと活動が生まれる「協働プラットフォーム」という視点から、地域コミュニティの形成過程やワークショップの体験デザインを実践的に研究。「芝の家」や「ご近所イノベーション学校」の運営を通じて港区の地域づくりを進めるほか、様々な地域や組織のコミュニティ事業に携わる。

慶應義塾大学の教員と学生有志、東京・港区の三田商店街振興組合が共同で運営していたプロジェクト「三田の家」のパンフレット。坂倉先生は「木曜マスター」(右端)だった。

東京都港区と慶應義塾大学との協働で運営する「芝の家」。誰もが自由に出入りしながら、子どもがのびのびと遊び、お年寄りが安心して暮らし、まちに住み働く人たちがお互いに支えあえる関係を育む場を提供する(写真は2018年に移転する前の旧芝の家)

「予期せぬもの」は、いつどこで生まれるんだろう?

西村実は坂倉先生が今のテーマに至る経緯をよく知らないので、今日は改めて聞いてみたいと思います。大学に入られたときには何が専門だったんですか?

坂倉学部時代は、文学部哲学科の美学美術史学専攻で、専門は美術史でした。

西村そうなんだ!今は、地域やコミュニティマネジメントの専門家というイメージですが、なぜ当時は美術史に興味を持たれてたんでしょう。

坂倉なんでだったんだろう。高校生のとき、美術作品の優劣や価値のあるなしってよくわからないなと思っていたんです。でも、人類は美術を大切にしているし私も嫌いではない。美術を評価する考え方みたいなことに興味があって美術史を選んだんです。でも、大学に入ってみると「昼間から『ルネサンスの彫刻はすばらしいですね』みたいに呑気なことを言っていていいんだろうか?』と疑問に思うところもあって。

人間は、動物にはない創造性や感性、精神性みたいなものをもっています。それが宿る作家性と、社会や経済的な事情との間に生まれてくるデザインの方が、ファインアートより面白いと思って興味を惹かれていったんです。結局、学部の卒論では1980年代にミラノを中心に多国籍のデザイナーが参加した「メンフィス(Memphis)」というデザイン運動をテーマに書きました。

メンフィスは、1970年代以前のモダンデザインに反発して「デザインとはそもそも何だろう?」を問い直しながら、ポストモダンの状況のなかで新しいデザインをつくろうとしていました。ミッドセンチュリー・モダンって、今ではちょっと古くてかっこいいデザインの定番ですが、メンフィスの頃の問題意識は、どんな国のどんな地域にもあてはまるデザインなんてつまらない、と批判する立場。当時はあまり文献もない新しい動きだったので、ちょっと興味をもったという感じでしたね。

西村なるほど。大学を卒業してから研究者になるまではどういう流れだったんですか?

坂倉5年間ほど凸版印刷の企画部門で、博物館の企画や大きな展示会をつくるような仕事をしていました。公共事業のために調査をして、基本構想から基本計画をつくり実施設計をする、みたいなルーチンのなかに、「これは本当に必要なのか」「これからの時代に何が求められているのか?」みたいな問いはなくて。「今までこういうふうにつくってきたから、これからもこういうふうにつくろう」みたいなことで進んでいくんだけども、これで本当に大丈夫なんだろうか?そうではないやり方はないものかと考えていました。

20代の後半は、ふたつ大きな動きがあって。ひとつは、決まり切った仕事の流れのなかで、どこで本当に創造性が発揮されるようなジャンプが起きるのか?みたいなこと。流れ作業みたいにいろんなものができていくけれど、どこで予期せぬものは生まれるんだろう?ということがすごく気になってきました。大きな会社のなかではごく一部しか携われない企画の仕事ができていたので、20代の普通の会社員としてはとても恵まれていたのですが、より本質的な仕事をしたくて、会社を辞めることを考えはじめていました。

もうひとつは、西村佳哲さんに出会って、彼の会社・リビングワールドの仕事を手伝ってと声をかけられたんです。そろそろ会社をやめて大学院に戻ろうと思っていたタイミングで、会社員の身分のまま一緒に仕事をさせていただいていたんですね。ちょうど『自分の仕事をつくる』を出版されるちょっと前でしたが、あ、働き方って自由にデザインしていいんだ、と新鮮でした。企業に就職すると、「仕事を覚える」というのは「仕事の進め方を覚える」みたいなところがありますが、それとは違って、その都度やり方を考えながら進めるのがプロジェクト型の仕事。「働き方がちがうから結果もちがう」というのを身を以て体験しました。

制度的でも商業的でもない場所を
どうしたらまちのなかにつくれるだろう?

西村その後に、大学院に戻られたんですか?

坂倉はい。その頃って本当に迷走している感じでした。会社で博物館などをつくる仕事をするなかで、「都市のことをやるには文化的なものを大事にしないといけないんじゃないか?」と考えていて。じゃあ、建築と都市とアートみたいな文脈で自分の専門性をもちたいと、慶應SFC(慶應大学湘南藤沢キャンパス)におられた建築史家の三宅理一先生を紹介してもらって。ちょうど、墨田区の京島や向島などの下町に入ってアートプロジェクトをやっていると聞いて、面白いなと思ってお世話になることにしたんです。

京島3丁目に残る長屋(Kamemaru2000 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0による)

ただ、入ってみるとまちづくりのなかでのアートプロジェクトは、「アートがあればコミュニケーションがうまくいく」みたいに、すごく道具的にアートを扱うところがあって。アートにはアートの、まちづくりにはまちづくりの問題がいろいろあるのに、掛け合わせて「アートで解決」というのはちょっと違うんじゃないかなと思っていました。そこで、慶應の三田キャンパスの授業も取ってみようと探して見つけたのが、熊倉敬聡先生の「美学特殊C」という講義です。

西村あの噂の講義を受けていたんですね、なるほど。

坂倉「美学特殊C」のシラバスが謎で。「この授業にはシラバスはないので、みんなで授業をデザインするところからやってください」みたいなことが書いてあって。「SFCの院生ですけどいいですか?」と、うっかり取っちゃったのが結構大きかったです。

その授業のなかで制度的でも商業的でもない場所「オルタナティブ・スペース」をどうやったら自分たちでつくれるかを考えるグループをつくって、「そもそも教室って何?」「なんで席は全部同じ方向を向いているんだろう?」と考えはじめたんですね。何をするかというより、そもそもその前提となる場がどのようにあるかというところに遡っていった。

2002年当時は、ミシン工場の食堂跡を改造した共同アトリエ「スタジオ食堂」など、アーティスト自身による画廊でも美術館でもない場所ができはじめていました。一方で、熊倉先生から京都のアーティスト集団「ダムタイプ」のメンバーだった小山田徹さん(京都市立芸術大学教授)が立ち上げた「アートスケープ(吉田山)」や「ウィークエンド・カフェ(京都大学YMCA地塩寮・会館)」から「バザールカフェ」につながる、90年代の京都の動きを聞いて。「めっちゃかっこいい。東京にはそんなのひとつもない」とすごく憧れました。


京島の元お米やさんの空き店舗を2ヶ月借りて行った「京島編集室」

自分たちもそういう場づくりをしてみたいと思っていたところ、三宅先生がフランスからアーティストを招いて「アーティスト イン 空き家 2002 京島」をするというので、「俺たちも空き家を借りて住んでいいんじゃないの?」みたいな勢いで、空き家を借りることになったんです。でも、私もそういうことをしたことがなかったし、仲間は19、20歳の学部生だから、場づくりしようと思っても何の経験も技術もなくてできる気がしない。

いろいろ考えた末、「場づくり」みたいなことはできなくても「住む」ことだったら自分たちにも十分できるんじゃないかと開き直って、とにかく「住む」ことから始めることにしたんです。ただ、誰にも気づかれずアパートに住んでもしかたないので、通りに面した元お米屋さんの空き店舗を2ヶ月間だけ4人で借りて住みはじめる「京島編集室」というプロジェクトをやりました。それが私の場づくりの原点なんですね。

計画ゼロで空き家に住んだら
すごく豊かなことが起きていった

坂倉京島編集室をはじめるとき、一応はブレストして「こういうことをしよう」という案はつくったのですが、住みはじめるときいはいったん全て手放して。「何のプログラムももたずに2ヶ月間住んで、そこで自然に起きていくことを大事にしよう」というコンセプトで、初日はみんなで寝袋を持っていくところからボロボロの空き店舗に住みはじめました。そうしたら、本当にいろんな人が来て、アーティストがワークショップをしたり、知らない人がカフェをはじめたりと、いろんなことがどんどん起きていった。

「何のプログラムももたずに2ヶ月間住んで、そこで自然に起きていくことを大事にしよう」と言ってはじまった京島編集室には、いろんな人が来ていろんなことが起きていった

人間は「何もしないと何も起きない」「何か計画したほうがいろんなことが起きるはずだ」とつい思ってしまうけれど、逆なんじゃないかと思いました。もし、はじめる前に頭のなかであらかじめ想像できるようなことを組んでいたら、こんなに豊かなこと起きなかった。むしろ、計画するということは、いろんな創造性の幅を狭めているんじゃないかとさえ思いました。

まちのなかにいろんなルールや計画性が緩んでいる場があれば、もっといろんなことが起きるのではないかと思うと、もうちょっと研究を続けたくなって、大学に残りやがてそこで働くことになってしまったんです。そこで、三田キャンパスの周りで何かできることはないかと思い、学生、教員、商店街のおっちゃんたちの協力を得て、2006年にはじまったのが「三田の家」ですね。

慶應義塾大学三田キャンパスの近くにあった「三田の家」。

大学の授業が行われたり、商店街の人がやってきたり。「いつも何が起きるかわからなさ」がある場だった。

わざわざキャンパスのすぐ近くにもう一つの場所をつくることによって、大学のなかでも、遠く離れた場所でも起きないことが起こりそうだと考えていました。その流れで、2008年には港区芝地区総合支所と慶應義塾大学が協働で運営する「芝の家」をやることになって。「あなたがやっているのはコミュニティです」と言われるようになったのは、その頃からですね。

もともと「コミュニティ」というキーワードを自ら使っていたわけではなかった。とにかく多様な人がともにいられて、そこから創造的な出会いが起きる場所ってどういうふうにできるんだろう?という関心からいろいろ手探りしていたのが原点です。

「芝の家」のようす。この日は楽器をもって集まった人たちが練習をしていたようです。

西村ちなみに、「芝の家」までたどり着いたとき、最初に「ウィークエンドカフェ」などに感じていたものは現れたんですか?

坂倉「京島編集室」をやったときから現れましたね。世の中にある他のどの場所にもなっていない、ある意味すごく中途半端な状態にある場所だからこそ、本当に多様な人たちがそのまま共存できるし、関わり合える。その人がそのまま伝わってきたり、予期せぬ出会いが起きてくる。きっとウィークエンドカフェなどにあったワクワク感は、こういう時間の流れ方の味わいに近かったんだろうなと感じました。

普通は設計されてしかるべきところは設計せず、前提とされている枠組みをずらしていく感じですね。たとえば、三田の家は「家」と言いながらも住んでいるわけではない。台所やリビングはあるけれど、やっていることは授業だったりしました。すると、ふだんと同じ授業をしていてもずいぶんズレていくし、教室では絶対に起きないことが起きるんです。

すでにある決まりきった場所では、
新しい関係性が生まれる気がしなかった

西村その後、「芝の家」の取り組みが始まり、勤務する大学も東京都市大学に移られましたが、こうした場づくりへの興味は変わらないんですか?

坂倉「小さい場所が開かれることで関係性や、ものの動き方や方向が変わって、コミュニティの風通しや血行がよくなることをしている」という意味でいうと変わらないですね。つくる場所のコンテンツや空間は特殊なものではないけれど、つくり手との連携の仕方や外側のデザインの仕立てを変えるだけで、来る人もそこで起きることも変わっていく。それが結果的に、決まりきった暮らしやルーチンの活動、一緒にいる人との関係性にちょっと風穴を開けて、まちのインパクトになるというか。

昔はそんなところまで見えていなくて、可能性が感じられることを試してみる感じでしたが、今は「こういうふうに動いていくだろう」という視点をもちながら動いているというところがちょっと違うのかもしれません。

杉本こうした場づくりの経験を積んできたことで、やりたいことのスケール感は大きくなっていくものでしょうか。

坂倉京島編集室は2ヶ月で予算30万円、芝の家はもう13年目で年間1000万円以上のお仕事として回っている、という意味では規模感は変わっていると思います。どちらかというと最初の頃は、自分が生きるための必要性から出発していたところがあります。

それこそ、当時は異業種交流会みたいなものがけっこうあったんだけど、名刺交換をして「すごいですね。一緒に何かやりましょう」みたいなお作法のなかで、新しいもの生まれる気が全然しなかった。そうじゃないものごとの動き方を体感できるという意味で、私自身がユーザーとして「そうそう、こういう場所があってもよかったよね」と思っていたのが15年前くらいでした。

今は、そうした場の社会的な意味にももっと自覚的になっていますし、立場としても、そこに突入していく学生を見守る感じになっています。経験が邪魔をして「きっとこういうことが起きるよね」と予測しちゃうことがあるから、彼らを見ているとすごくうらやましい。また、こういう場所を欲している人が絶対にいるはずだから、それをそれぞれの現場でちゃんとつくっていきたいという意識になってきていると思います。

“生きもの”としての人間が生きやすい
環境に合わせて社会を設計する

西村今取り組まれていることについて、大学の先生として、大学だからこそできるという部分はありますか。

坂倉私のやっていることは、個人のプロジェクトよりは大きいけれど、ビジネスモデルをつくって社会を変えようとするほどではない。個人を超えたところからはじまって、会社にする手前ぐらいの部分なんですよね。別の仕事をしながらそういう活動をすることもできるし、そういう個人的公共活動みたいな取り組みが広がるのは大事なことでもあるんだけど、どうせやるなら大学にいる立場でやったほうがたぶんインパクトが出るだろうとは感じています。

たとえば「芝の家」を完全に個人のボランティアとしてやっていても広がりづらいし、逆にコピペして全国展開するような会社をつくってもあまりうまくいきそうにない。それよりは、大学の立場から関わることによって、現場ごとの状況に合わせてどうやって社会に風穴を開けるかというアクションそのものを研究対象にできるのではないか。そもそも最初からずっと大学にいたわけではないので、半分は実践者、半分は研究者の立場で関わりたいと思っているというのもあります。

たとえ小さなことであっても、「それできたじゃん」みたいな。そしてなぜできたのか、他と何が違うかみたいなことをちょっとだけ一般化することがすごく大事だなと思っています。まずはやってみせて、「ほらね」みたいに言うのが一番いい。そしてそれを転用可能な知見にしていく。芝の家がやっていることを見て「目的なくても大丈夫なんだ」とか「毎日イベントしなくても人来るんだ」みたいになると、思い込みの壁が崩れることもあると思いますね。

西村実践する社会学者みたいな感じですね。坂倉先生にとっては、「芝の家をつくっています」というよりは「芝の家で起きてくることをつくっています」ということになるのでしょうか。


移転前の「芝の家」跡地では「人の手がつくる、人がいられる広場に、そして様々な人の思いを実現し、創造的な出会いが生まれる場所」にする実験「芝のはらっぱプロジェクト」がはじまっている

坂倉まさに、そういう感じです。芝の家の実態は「芝の家で起きていること」だと思います。芝の家でいろいろな人が出会い、予期せぬことが起きていく日々の出来事が、芝の家という場をつくりだしている。動きがまずあって、構造が後からできていくというか、参加者の相互作用によって創発される場という言い方をしたりもしますが、空間をつくって利用者に価値を提供していくというのとはちょっと違います。

とはいえ、そういうことが起きる器というか、プラットフォームの部分は誰かが設計しないといけないところがあって、そこは私の研究対象です。こういうふうにつくると「たまたま道端で意気投合する人に出会う」よりも確率高くいろんなことが起こりやすいという土台。ただ何が起きるかはつくってみないとわからない。

「いろんなことが起きやすい仕組みはどうやってつくれるんだろう?」ということを考えているという感じです。「社会はこうあるべきだ。こうなるとよくなるからこうします」みたいに目的地と道筋を言い切るのはどうしてもできなくて。やっぱりオープンエンドなほうがいいと思います。

西村できないというより、したくないんだろうなと思って僕は聞いていました。今回のインタビューの本題は「時代にとって大切な問いを問う」というテーマなのですが、今の時代において「もう少しこういうことを考えたら面白いんじゃないだろうか」ということってなんでしょうか?

坂倉急にすごい本題ですね。ぱっと思いつくのは、やっぱり人間は“生きもの”だということを忘れないようにしたほうがいいんじゃないかということです。今の時代は、どんどん生きものとして苦しくなるようなシステムをつくりがちで。たとえば、教育の現場なんて特にそうですけど、「何歳になったら何年生にならなければいけない」と決まっていますよね。人の成長なんてそれぞれなんだから、いつ中学生になるか高校生になるかなんて、ちょっとずつ違ってていいじゃないと思います。それってやっぱり、人間を生きものとして扱っていないと思うんです。

社会のシステムに合わせて生きていかないといけないように設計されてしまっているけど、生きものとしては息苦しいですよね。私が15秒後に何をしゃべるかすら自分でもわからない。その都度、生命は生き直しているのだから、その流動性を狭めていくとどんどん苦しくなっていきます。もうちょっと、生きものとしての人間が生きやすい環境として社会を設計する感覚が広がるといいなと思っていますね。

いたいようにいられる場所にいると
人のエネルギーは引き出される

西村この前、生物学者と話したときに、もともと海中で誕生して漂っていた生物が動くことから進化がはじまるという話が面白いなと思ったんです。最初はヒモみたいなものができて動き出し、アゴのようなものができるとそれを維持するためのエネルギーが必要だから、捕食のためにヒレをつくる。また、ヒレを維持するために動きが多くなり、敵から逃げるために目ができて……と、より多くのエネルギーを求めて進化を繰り返していくわけですよね。だけど、いつまでたっても収支はマイナスみたいな状態のままなんて、わけがわからないなと思って。

収支がプラスの状態になるには、がんばってその回転を止めればいいのか、ゆっくりにできればいいのか。どうしたら、その動かざるを得ない部分を超えられるのかなと思うんです。

板倉動かしてあげたらいいと思いますし、止めたほうがいいという話はあまり想像ができなかったんですけど。むしろ、いまの社会は、人間の動きたい、生きたいというエネルギーをあまりにも浪費している気がするんですよ。たとえば、こんなに子育てしにくい社会だけどやっぱり子どもを産んで育てたいと思う、その生物的な本能に甘えて結構ずさんな社会システムになっていて。いろんなところで制度不良というか、システムの不適合みたいなことがいっぱい起きていると思うんですね。そういう社会システムは、そう長くもたないんじゃないかという気がします。

企業のなかでも、人の役に立ちたい、評価されたいという思い、あるいは「仕事がないよりは忙しくても給料が安くても何かしていたい」という気持ちを搾取して、社会的・地球環境的にはあまり意味がないけど日銭がちょっと稼げるみたいな仕事で人をこき使ったりする。そういうことが起きちゃっているのは本当にどうかと思います。

先ほどの「生きものとしての人間が生きやすい環境に合わせて」という話にもつながると思うのですが、やっぱり「役に立つかどうか」「社会的に価値があるかどうか」で人間を見すぎている気がして。芝の家などの場所は、他の空間に比べると社会的な基準で評価をされないから、ありのままの自分でいたいようにいられる。そういう場所がその人のエネルギーを引き出すところがあって、「会社に行くのがつらいときに、芝の家に寄って息継ぎをしてから会社に戻る」という人も結構います。

1日5時間オープンしていますが、いつ誰が来るかわからないし、何が起こるかわからない。大して珍しいことが起こるわけでもないのですが、その日起きたことはその日にしか起こらなかったと実感できる。その計画性のない、コントロールされない時間、非構成的な時間とか言っていますけど、この時間の流れには独特の味わいがあります。生きている感じがするというか。

そういう、相対的にいろんな力が一瞬弱まっているような空間や時間を、どうやって我々はもっとつくり出せるんだろうか?みたいなことは、社会技術というか、生きられる社会をつくっていくためのリテラシーとして、本当にまだまだ足りていないんじゃないかなと思いますね。

西村そういう空間や時間はもともとあったんでしょうか?それとも全然なくて、ようやくちょっとずつ出てきたんでしょうか。

坂倉もともとは、たぶんもっと社会システムがゆるかったから、いろんな人がいても許容されていたのではないでしょうか。もっとひどいこともたくさん起きていたかもしれないけど、隙間もいっぱいあったんだと思います。都市空間はどんどん社会的な監視が強くなって、経済合理主義的な考え方だけでつくられるようになっていったので。どうしても、相対的に「何をしてもいい」「目的が特になくていい」みたいなことはどんどん狭まっていると思います。

「こうあらねばならない」を取り払うと
豊かな関係性と時間があらわれる

西村ちょっと突拍子もない話をするんですけど、ニュートンが時間を「T」で表して、それが速度や距離のように計測可能なものと紐づいて数値化してしまって、フワフワだった時間が測れるようになったことが問題なんじゃないかと思って。本当なら、「冬は夜が長くて1日が短い」みたいな感じだったのが、どの季節も1日は24時間でそれが繰り返される感じが出てきたのかなと思うんです。日々違うはずの時間を、昨日も今日も同じ24時間としてみることですごい切り刻んでいて、フワフワ感みたいなものがなくなっていったんだろうなと思いました。

杉本そのフワフワ感が「生きもの」の感覚ですよね、きっと。さっき坂倉先生が言われた「人間を生きものとして見たほうがいい」って感じに近い感じがします。

西村坂倉先生は、本来世界ってどういう感じがいいと思いますか?

坂倉芝の家とかが特になくても、だいたいが芝の家みたいな世界。三田の家って、空間自体はなくなってしまったのですが「三田の家LLP(有限責任事業組合)」という組織自体は継続していて、なぜ続いているのかというと「社会の三田の家化を目指す」ためなんです。

三田の家LLP総会のようす。今も「三田の家」はつづいている。

西村突然壮大だった(笑)。

坂倉三田の家は、何か目的があるわけでも、課題解決型でもない。そんな「家」誰も見たことも経験したこともなかったけど、いろいろな立場、多様な専門の人たちが、うまく説明はできないけど、でもそれぞれの意味合いで必要だと思ってつくっていった場所です。

定義とかコンセプトとかあえて決めなかったので、説明がすごい難しくなるわけですが、それぞれの人が全然違う説明をするけど、ちょっと重なっているところもありそう、みたいな感じだったんです。だけど、お互いが違う言葉で説明していることに対してみんなが信頼しあっているので不具合があるわけでもない。「イベントとか仕込みがなければもてなせない」ということは全然なくて。私が三田の家にいて「オープンですよ」と言っていれば、もう俄然オープンしているみたいな感じでした。

「ここはこういう場所であらねばならない」というものをちょっと取っ払ってみると、途端に開けるいろんな豊かな関係性とか時間の流れ方があって。こんな社会だけど、本当にちょっとした工夫やほんのちょっとした思い込みを問い直すだけでだいぶん違うと思うんですよね。そういう時間や空間をどんどん広げていけるといいよねという意味で、三田の家の名前をもつ組織が存続している意義があると考えています。

杉本昨年、『京大的文化事典』という本を出版したとき、ウィークエンドカフェ含め京都大学とその周辺に生まれていた「こうであらねばならない」を取り払った場をたくさん取材して書いたんです。最終章では、こうした場で過ごした感覚は「痕跡」として残り続けて、同じような痕跡をもつ人に出会うとまた起動するのではないかと書いたのですが、三田の家や芝の家で過ごした人たちにもやはり、そこで過ごした感覚はずっと残り続けて次の場所を用意するんじゃないかと思います。

坂倉そうですよね。三田の家は、ウィークエンドカフェの痕跡を引き継いでいたんじゃないかと思います。三田の家の「DNA」を受け継いでいる、とおっしゃってくれるような場もあります。たとえば、世田谷区奥沢の「シェア奥沢」とか、塩尻市の「nanoda」とか。「こうであらねばならない」というのは言語で伝わりますが、「こうであらねばならないを取り払った場」を伝えていくためには、経験の共有ということがすごく重要になってくると思います。

理念的なこと、知識のなかでものごとを組み立てることには限界があって。共に時間を重ねていくなかで、情報化される以前にある、みんながはじめて向き合う出来事を経験し直すところから、小さい場を立ち上げ直していくことがすごく大事だなと思います。


東京都市大学のある尾山台ではじまる「おやまちリビングラボ」の準備室。商店街に小さな拠点を借りている。

どこかで見聞きしたことがあるものに囲まれているのに「それは新しいね」「面白いね」と言い合っているのは本当に虚しい。大学の演習科目とか。もちろん技術を身に付けるのは重要なのですが、机上の計画の上手下手を競うよりもまちに直接介入していきたい

いま、東京都市大学のお膝元の尾山台というところで、「おやまちリビングラボ」という場を準備しています。現在は準備室として商店街に小さな拠点を実験的に借りているのですが、そこを学生と掃除したり、机を置いてまちの人の声をリサーチしてみんなで分析したりしています。場をひらくと、不意に訪れる人がいたり、予期せぬことが起こったりして、コントロールできない。効率的な作業をよしとする頭では「作業の邪魔が入った」ということになるけど、来年自分たちが本格的につくる拠点はまさにそういう環境にできていく場なんですね。ノイズの部分も重要な情報なわけで、これは一緒に経験しないとなかなか共有できない。

2020年11月に出版された「コミュニティマネジメント」(中央経済社)には、坂倉先生の場づくりの取り組み事例も紹介されている

生きものだから予測不可能
脈絡のなさこそが今日の“いのち”

西村お話を聞いていて「こう振舞ってほしい」というメッセージを発していない空間みたいなものが、都市のなかに必要なのかなと思いました。「なんのためにあるのか」を問わない場所が増えていくと、世界はだんだん芝の家化していくのかなと。

坂倉そうですね。都市空間では、振舞うべき振る舞いに合わせて動いていればお咎めがないというか、ベルトコンベアーに乗せられているように扱われる。逆に言うと、不用意に立ち止まると怒られる、それとなく「こうしてはいけない」というメッセージがたくさん発せられていてすごく息苦しいというのがありますよね。

三田の家や芝の家のような場所を、すごく居心地がいいと言う人と、すごく居心地が悪いという人がいて。居心地が悪い大きな原因は、自分が問われてしまうからなんです。誰でも来て好きにしていいんですけど、「こう振る舞えばいい」というものが決定的にかけていたので。「何をすればいいんですか?」「どう関わればいいんですか?」と困ってしまっていづらくなってしまう。

杉本今回でシリーズ10回目になるのですが、今までのインタビューで共通していたことのなかに「役に立つかどうかという視点で見る以前に、何が本当に役に立つかを私たちは知らないという前提に立つべきではないか」「もっと余白をつくったほうがいいのではないか」というお話があったように思います。坂倉先生の場づくりも、まさにそうした視点に立つものではないかと思いました。

坂倉そうですね。たしかに、何が本当に役に立つかを私たちはまだ知らないのかもしれませんね。私の研究対象、というとあれですが、普通の人たちが、収入でも慈善でも趣味のためでもなく、地域のなかでいろいろな人と関わりあって活動をしていて、その結果なんか生き生きと自分らしく生きているようなそういう現象を見ていると、まだ一般には広まっていない大事なことがたくさんありそうです。

日本は工業国として成功してきたせいもあって、工業生産モデルがものごとの正しいつくり方だと思い込みすぎているところがあるなと思います。最終的につくる製品を決めて、一番安く材料を仕入れてきて、効率的に組み立てられるように工場のラインを設計するみたいな組み立て方。目的を明確にして効率的にやる以外のやり方もあるんじゃないの?というのは、すごく大事な問いかけじゃないかと思います。

やっぱり、合理的な課題提起をしてそれを解決するようなものごとのつくり方に囚われすぎると、起こることも起こらないし息苦しくなってしまう。人のなかに眠っている可能性や生きる力みたいなものも芽吹かない。小さくてもいいから、自分は今ここで生きていてこれからもいろんな形で変わっていくことを実感できるような場所は、まだまだ必要だと思います。

西村今の話を聞いていてふたつ考えたことがあるんですけど、ひとつめも今のお話に関係ないし、ふたつめはもっと関係ないんです。でも、ふたつ話すと関係がつくられるので話してみます。

ひとつは、過去の伝説みたいなものに、良くも悪くも動かされるなと思って。じゃあ、良い伝説をつくるのが大事なんじゃないかと考えていたんですね。もうひとつは、今思いついて5分くらいで考えたこのわけわからない話をどうやって話そうかと考えていて。この感じは、僕が人生のなかではじめて「これがダイアログか」と感じた瞬間に似ているんです。

今なぜ、伝説の話をしているのかは全然説明がつかないんですけど、後でつながるんだと思って。それを「今は、ちょっと伝説の話は違う」「今日は坂倉先生のインタビューなので、都市の話をしてください」みたいになった瞬間に全部死んでしまう。そういう脈絡のなさが今日の話の命みたいなものなのかなと思いました。

坂倉都市のなかで、「自分のことを語っていい場所」ってなかなかないんですよ。なんというか、飲食店や家のなかではないちょっとパブリックな場で、「私はこうしたい」みたいな発言が許される場。まちづくりのワークショップとかだと、地域はこうあるべきという感じになりますよね。無意識に自分のことと地域のことは切り離しているし、関係なさそうだとも思うんですが、口に出してみると意外につながっていくんです。で、だんだんその人の根っこが暮らしに根を張っていく。

都市は人工物だし、人間は計画的に予測して考えて行動できているはずだと思うけど、都市的な実践の現場にいると何が起こるかわからなくて十分に自然なんですよね。天候や気候とか、学校がはじまったとかいろんな要因に薄く作用されて、人が来たり来なかったりもする。そういう意味で言うと本当に脈絡はない。それをいちいちコントロールしようとするとやっぱり違うものになるんですよ。そして、なぜか知らないけど伝説の話と脈絡の話をしたかったおじさんたちがどんどん死んでしまうというか。

西村そうなってしまうと悲しい。うちのシクラメンは一年中ずっと咲いているんですけど、土の栄養がなくなって枯れ始めたので、土を変えてあげたら花が落ちてもう一回ちゃんと咲くようになったんですよね。もう世の中って不思議に溢れているなと思いました。まったくわからない。

杉本本当に脈絡がなくなりました(笑)。

この記事は、ミラツクが運営するメンバーシップ「ROOM」によって取材・制作されています。http://room.emerging-future.org/

お話を聞いていて「生きものとしての人間」ということを、わざわざ言わなければいけないほどに、この社会は人間を「生きもの」として扱っていないということを改めて感じました。わたしはライターとして、日々いろんな人の話を聞いていますが、「ライターは人という自然に触れる仕事だな」と思っていて。生きものとしての人間、人という自然をちゃんと認め合える関係をこの社会のなかで結んでいきたいという思いが強いので、坂倉先生のお話には共感するところがとても大きく、いつも以上に前のめりで聞いてしまっていました。

最後に、西村さんが「脈絡のない話」をはじめられたのは、「人がそのままでいていい場所」をつくってきた坂倉先生が相手だったからじゃないかなとも思っていて。こんなふうに、脈絡がないように思えても、その時本当に言いたいことを話しはじめられるような場所が、たくさんあるほうがいいと心から思います。

当初10回の予定ではじまった「時代にとって大切な問いを問う」シリーズでしたが、第2期へと続くことになりました。東京工業大学リーダーシップ研究院 教授 中野民夫さんにお話を聞く予定です。「問い」の旅、もうしばらくおつきあいください。

杉本恭子 ライター
京都在住のフリーライター。大阪出身。東京でさまざまなオンラインメディアの編集者を経験したのち、学生時代を過ごした京都でフリーに。現在は、人の言葉をありのままに聴くインタビューに取り組んでいます。Webマガジン「greenz.jp」シニアライター、「雛形」では徳島県・神山の女性たちにフォーカスした「かみやまの娘たち」を連載中。仏教が好き、お坊さんに詳しい。
インタビュー記事