大いなるものに畏敬の念を持ち、自分の内側にも耳を傾ける。すると世界は、自然にあるべき姿になっていく【ミラツク年次フォーラム2020】
毎年12月23日に開催している「ミラツク年次フォーラム」。一般公開はせず、1年間ミラツクとご縁のあった方々に、感謝を込めてお集まりいただくフォーラムです。2020年は新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、完全オンラインでの開催となりました。また、例年は完全招待制ですが、ミラツクが運営するメンバーシップ「ROOM」メンバーであれば誰でも参加OKという新しいスタイルでの開催としました。フォーラムシリーズでは、ミラツク年次フォーラムでの各セッションの様子をお届けします。
今回ご紹介するのは、基調鼎談に続いて行われたセッション1-A。テーマは「今この時代に問われている問いを問う」です。それぞれに強烈な個性を放つ4名によるセッションは、zoom上でも、自己紹介の時点でみんなが一気に惹きつけられたのがわかるほど、切れ味が鋭く、興味深い話の連続でした。
祈り、呪い、妖怪、科学、医療、大いなる力、自然。そして、コロナ。
主なキーワードを並べるだけでも、どんなお話か気になってしまうのではないでしょうか。そこには、どんな立場であっても、どんな思考を持つ人でも、必ず心を打たれる核心的なメッセージがありました。話は、進むごとに美しくつながっていき、自然と大きな流れとなっていきます。
今、この時期だからこそ欲しかったメッセージがたくさん詰まったセッションです。ぜひご一読ください。
京都大学総合博物館准教授。1973年生まれ。京都大学工学部卒業、同大学院工学研究科修了。博士(工学)。専門はシステム工学。2012年7月より経済産業省産業技術政策課にて技術戦略担当の課長補佐に従事。2014年7月より復職。小中高校におけるキャリア教育、企業におけるイノベーター育成研修など、ワークショップ多数。平成29年度文部科学大臣賞(科学技術分野の理解増進)受賞。著書に『問いのデザイン 創造的対話のファシリテーション』、『インクルーシブデザイン:社会の課題を解決する参加型デザイン』(いずれも共著、学芸出版社)など。
1990年に東北大学医学部を卒業。聖路加国際病院で外科医として勤務したあと、東北大学心臓外科医局にて心臓移植の研究を行う。1995年に青年海外協力隊として、マラウイ共和国の国立ゾンバ中央病院に赴任。3年間の活動を経て、ハーバード大学公衆衛生大学院で国際保健学を、ロンドン大学で医療人類学を修学。その後、タンザニア共和国で保健プロジェクトのリーダーを務めたのを皮切りに、国際協力機構(JICA)のシニアアドバイザーとして、アフリカを中心に世界各国の保健システム構築に関わる。2015年に策定されたSDGs(持続可能な開発目標)の国際委員を務める。現在は東京女子医科大学医学部にて国際環境・熱帯医学講座の講座主任として活躍しながら、引き続きアフリカを含め世界各国の支援を続けている。
公益財団法人五井平和財団 ネットワーク担当
「白光真宏会」会長代理。1980年生まれ。幼少時代にアメリカとドイツで育つ。学習院大学法学部卒業。平和について幼少から考え、そのために祈りと対話という二つの軸を大切にさまざまな活動を行っている。2009年からは「Evolutionary Leaders」の一員となりディーバック・チョブラ、バーバラ・マークス・ハバードやリンマクタガードをはじめとするスピリチュアルリーダー、科学者、ベストセラー作家、意識啓蒙家らと共に、意識の力によって変化していく人類の未来、進化の行方について研究している。
一般社団法人イノラボ・インターナショナル 共同代表
慶応義塾大学大学院卒業後、ソーシャルイノベーションのスケールアウト(拡散)をテーマとして、コンサルティングやリサーチに従事。スタンフォード大学(Center on Philanthropy and Civil Society)、クレアモント大学院大学ピーター・ドラッカー・スクール・オブ・マネジメント客員研究員(Visiting Practitioner)を経て、現職。身体からの情報を含めたホリスティックなアプローチによるリーダーシップ教育に携わる。ソーシャル・プレゼンシング・シアター(SPT)シニアティーチャー。NPO法人ミラツク理事。一般社団法人ソーシャル・インベストメント・パートナーズ理事。『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー日本版』共同発起人。
天邪鬼、呪い、祈り、それをまとめてくれる人
西村まずは、順番に自己紹介をお願いします。
塩瀬さん京都大学総合博物館で、准教授の塩瀬といいます。ミラツクジャーナルの良かった記事1位に選んでいただき、ありがとうございます。負けず嫌いで、なんでも1位になるのが好きなので嬉しいです。
記事の中でも言っていますけど、僕は天邪鬼(あまのじゃく)で、状況を変えるようなひとことを言うのが好きなんです。今、経産省の審議会に参加しているんですけれども「失われた30年」ってあんまりみんなが言うので「失われた30年だと平成生まれがいなかったことになりますね」と話をしたら、今年に入って、20代と30代だけの審議会が生まれました。
20代、30代が世の中を変えていくひとことを言うチャンスができたというのは、すごく画期的なことで嬉しいです。なので、これからも天邪鬼に、きれいごとを述べる役回りとして頑張りたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。
杉下智彦さん(左から2人目)
杉下さんこんにちは。東京女子医大の杉下です。大学では国際保健、グローバルヘルスを教えています。記事は2位だったので悔しいっていう感じなんですけど(笑)。でもアフリカに興味をもってくださる人がたくさんいらっしゃったのを、とても嬉しく思います。
私は25年前に初めてアフリカに行きました。そして日本に帰ってきたら、世界観の違いに驚くことがたくさんあったんです。そういうところから、アフリカの医療人類学、呪いなどの研究をするようになりました。アフリカの伝統的な世界観と日本の伝統的な世界観、もしくは現代の世界観。最近のコロナに関するさまざまな社会現象も、そういった視点からウォッチしていまして、そこからまた、いろいろなことを学びたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
西村毎年、年次フォーラムでは杉下さんが必ず伝説を残します。1回目では呪いの話をぶち込んで伝説を残し、2回目では呪いと瞬間移動がくっついて伝説を残し。なので、今日も伝説が生まれるんじゃないかと楽しみにしています。そして由佳さんには、今日は爆弾としてセッションに入っていただきました。
松浦さんはい、よろしくお願いします。すでにお二方に興味津々で仕方がないんですけれども、このような場に爆弾として入らせていただいたということなので、これは「自由な自分のままでいいんだよ」というメッセージだと受け止めさせていただきます。
はじめまして、松浦由佳と申します。私の祖父は、五井昌久(ごいまさひさ)という人で、「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉を、戦後間もなく提唱した人でした。そして私は、祈りの力を信じ、日本から世界の平和を発信していくという信念をもって活動していた祖父、そして祖父の教えを受け継いだ両親のもとで生まれ育ちました。
私は祖父の教えは宗教ではなく、スピリチュアリティに基づく哲学「スピリチュアル・フィロソフィー」だと感じております。なので、祖父の「スピリチュアル・フィロソフィー」をもとに、現在は宗教法人、財団法人、そしてNGOという3つの組織が、それぞれ違う分野で、それぞれの役割を担いながら五井グループとして活動しております。
その中でも自分は今、宗教法人の白光真宏会をメインに活動しております。祈りの力、見えない力、愛、そういう価値観を大事にしていきたい。そして、祖父の祈り言葉の背景にある世界観や大事にしている思想、哲学を、もっともっと表していけたらなという思いで活動しております。
私には大事にしている軸が2つあります。それは「祈り」と「対話」です。ですので、今日はこうやってみなさまと一緒に過ごさせていただけることを、本当に楽しみにしてきました。
西村由佳さんとは10年来の付き合いで、ミラツクでもずっと理事をやってもらっています。由佳さんの話を聞いていると、本当に「祈りってなんだろう?」っていうことになっていくんですけど。
以前、北朝鮮がミサイルを撃っていた時に用事があって連絡したら「今ちょっと祈るのに忙しいから」って言われたことがあったんです。「“今祈るのに忙しい”って言う人が世の中にいるんだ!」と思って、すごくびっくりしました。そのときに、由佳さんは言葉ではなく、行動としての祈りをもっている人なんだなと思いました。
活動自体は幅広くされているけれども、その中心には「祈り」を持っている人。それって面白いんじゃないかなと思ったので、今日は爆弾として投下させてもらいました。あとはこの3人の話をうまくまとめてくれる人が必要だと思ったので、有紀さんにまとめ役をお願いしました。
井上さん井上有紀と申します。私はもう、この3人の自己紹介だけでお腹いっぱいって感じなんですけど。天邪鬼と呪いと祈りが揃ったら、すぐにはまとめられないだろうなと思います(笑)。
私は2006年にソーシャルイノベーションの研究を始めたことがきっかけで、勇哉とも由佳さんとも知り合い、その当時からお世話になっています。
最近は、思考だけでなく、身体の感覚や感情を含めたシステムを通じて社会の複雑な関係性を理解したり、それを変容につなげていくワークショップを行っています。そしてここ一年は、基調鼎談でも話に出ていた『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー』の日本版の雑誌の立ち上げに注力しています。
西村というわけで、このセッションは最強メンバーです。天邪鬼で、テクノロジー・エンジニアリング・ロボットみたいな背景をもつ塩瀬さん、呪いと医療っていう、近代以前と以後をつなぐ両方をもたれている杉下さんと、祈りの由佳さん、そしてその3人をまとめられる有紀さん。何が起こるかはわからないけれど、絶対面白くなるだろうっていう、そういう設定の一時間です。
変わってしまうことと、変えたいことと、変えたくないことを問う
西村一応、最初のテーマだけは決めておきました。「今この時代が問われている問いを問う」っていう3つの「問い」が入っているテーマです。これはもう、まずは塩瀬さんに聞くしかない感じなんですが。
塩瀬さんそうだね。じゃあ、祈りと科学技術の話をくっつけてみましょうか。僕自身はエンジニアリング畑なので、祈りを直接語ることはありません。でもお話を聞いていて、祈りに関わる技術の話はできるなと思いました。
まず、今年すごく突きつけられたと思っているのは、「変わってしまうこと」と「変えたいこと」と「変えたくないこと」。その辺りがみんなグチャグチャになったということです。
変わりたい人が騒ぎに乗じて「変えよう」と言い出したり、変えたくない人が「変わらない」って言い張ったり。つまり、普遍的なものとそうじゃないものが浮き彫りになった。あるいは、これまでちゃんと対話してこなかったことがあらわになった。そこを来年にかけてちゃんと整理して、問うことができたらいいなと思っています。
これはマレーシア人初の宇宙飛行士のお話なんですけど、彼はイスラム教徒なのでメッカに向かってお祈りをしなくちゃいけないんですね。でも宇宙ステーションはすごいスピードで地球の周りをぐるぐる廻るので、メッカの方向がどんどん変わるんです。それで、イスラム教の宗教学者たちが考えたわけです。「ラマダン(断食月)どうする?」「お祈りどうする?」って。
まずラマダンについては、仕事に差し支えそうだから宇宙食はまぁいいだろうっていうことになりました。そしてお祈りは「お祈りをし始めた瞬間にメッカの方向を向いていればOK」という解釈になったんです。そこでマレーシアは、宇宙ステーションが地球の周りを廻っている時に、メッカがどっちの方向にあるのかを常に計算するソフトを、国家プロジェクトとして開発したんです。
ものすごいスピードで地球の周りを廻っているっていう状況では、宗教でも想定されていなかったような状況が出てくる。でもやり方を工夫して変えていくことによって、メッカのほうに向かって祈り始めるという「変えたくないもの」を守っていくことができるんですね。
技術ができることのひとつは、その瞬間にどっちにメッカがあるのかを伝えること。そこで勝手にバーチャルメッカをつくるのはダメな気がするし、祈りをやめようっていうことにもなりません。「変えたいこと」と「変えたくないこと」が混在する中で、変わってしまいそうなことをなんとかして守る。その中で次を見つけ出していくことが「対話」なのかなと思いました。
大いなる力に感謝すると同時に、自分の内にもすばらしい力があると信じる
西村祈りの話が出たんですけど、由佳さんどうですか。テーマとしては「今この時代が問われている問いを問う」なんですけど。
松浦さん自分で解いたことのない問いなのに、答えを知った気になっていることってありますよね。たとえば「常識」とか「ルール」がそうです。「そもそもなんのためにやってるの?」「誰のためにやってるの?」という問いを持たずに「やるべきだ」とか「正しいからだ」で済ませてしまう。そういうことは、祈りに限らずすごく多いと思っていて。
もちろん、ルールは大事なんだろうけど「なんのために自分は祈ってるんだろう?」という大元にある問いを、祈りながらも持ち続けることがすごく大事なんだろうなと思います。
それと、もともと科学と宗教はひとつだったという話を聞いたことがあるんです。でも、それぞれ方向性が変わっていって、役割もどんどん離れていってしまった。だからこれからの時代で、そのふたつが融合していったらいいなと願っています。
西村ちなみに、由佳さんはなんで祈るんですか?
松浦さんなんででしょう。祈りも最終的にはツールでしかないから。私にとって祈りは、私を命の原点、大元に連れ戻してくれるものだと思っています。なので、そこに到達したら、祈りっていう形もなくなるんだろうなと思いながら祈ってるんですけど……。
宗教っていうのは、私の勝手なイメージでは、自分を無くして大いなるものとつながろうとする力なんです。でもそこにすべての力を与えてしまうと、自分は小さくて何もできないと思ってしまいがちな概念でもある。一方で物質主義は、大いなる力じゃなく、自分の中に本来ある力を信じきって生きるというものです。だから私は、その両方を同時に持ち続けたいという気持ちがすごくあります。
自分を超えた大いなる力に感謝して、それとつながる。でも同時に、自分の内にもすばらしい力があるんだよというスタンスをもって生きていきたい。(唐突に)祈りと呪いってどうなんでしょう?
一同笑
呪いと祈りは、じつは「同じこと」
西村話を変えてきた(笑)。
杉下さんちょうど今、お話しようと思ったところでした(笑)。今日の爆弾が祈りだとすると、呪いと祈りってたぶん「同じこと」だと僕は思います。
私のスタートポイントは、アフリカのHIVのパンデミックなんです。私が、90年代に外科医としてアフリカのマラウイに行った時には、まだ抗ウイルス薬もなく、当時の成人の39%がHIVに罹患しており、10年以内に100%亡くなるという、本当に悲惨な状況でした。
そこで最初に現地から学んだのが、じつは宗教でした。そのころは、いわゆるカルト宗教がアフリカの奥地にどんどん生まれていたんです。ひとりの人がある日「俺が教祖だ!」って叫んで、そのままカルトになっていく。山奥で、水も電気もラジオもテレビもない世界で、信者が集まって、宗教活動がどんどん始まっていく。非常に心を惹かれて、村々を訪ね、インディペンデント・チャーチ(独立教会)に通い始めるようになりました。その中で、呪いと祈りが同時並行で行われているのを目の当たりにしたんです。
杉下さんアフリカの人たちは、HIVがなんなのかはよくわからない。でも、若者がどんどん死んでいくのは確かなわけです。これでは村が存続できない、毎日がお葬式だっていう世界でですね、とにかく「俺がやらなきゃ」と教祖が出てきて、みんなが祈りを捧げたり、呪いを叫んだりするようになった。つまり、自分たちの未来が見えないとき、いろいろな形で見えるようにしてくれるのがシンボリックに呪いとか祈りの意味なんですよね。だから僕からすると、さきほど祈りはツールだというお話があったと思いますけど、もうちょっというとネイチャーというか自然な反応なんだと思います。
先が見通せない時代に、何らかの自分のシンボルを外在化する、つまり外に置くことによって、それに向かって祈ったり呪ったりした。祈りや呪いは、それをいろいろな形でコントロールしようとする時のツールなんです。
シンボルの対象はいろいろあると思います。だけど、気持ちとしては常に同じで、なんらかの生きづらさや不安、怖さがある時に「みんなが共通して感じられるもの」なんですよね。そこに何かを捧げるのは、とても自然な行動なんだろうなと思うんです。
アマビエ(写真:iStock)
杉下さんちょうど今、論文を書き始めているんですけど、今回のコロナでアマビエが出てきた背景もまさにそうですね。じつは、新規の感染者数とアマビエのツイッター数って完全に比例しているんです。でも、第一波までは比例しているんですけど、第二波では比例しなくなってくる。そうしたら次は「鬼滅の刃」が比例し始めるんです。
先が見えない中で、妖怪っていうわけのわからないものを見つけて引っ張ってきた。あんまりかわいくもないのに、みんながやってるからって、どんどん広めようとたくさんの人が絵を描いた。その時の心情としては、もう少ししたら乗り切れるだろうっていう祈りみたいなものがあったと思うんです。でも夏を過ぎても乗り切れなくて、第三波になったらさらに悲惨なことになって、この先どうなるのか何もわからない状態になったわけです。
そうすると単に祈る、アマビエのように描けば収まるっていう時期から、もう少し現実的に復活とか再生を考え始めるんですね。つまり、鬼になって戻って来るという「鬼滅の刃」に心を奪われていったのかもしれません。
これはHIVのパンデミックの時とまさに同じで、一種の宗教活動なんですね。祈りに近い、あるいは呪いに近いものなんじゃないかなって思っているところです。
祈りも呪いも科学も、大いなる力を外在化する手段
塩瀬さん大いなる力を外在化する手段として、祈りや呪いがある。これ、科学も一緒なんですよね。
科学者って一見、無神論者っぽいですよね。でもじつは科学者は、無神論者か宗教にのめり込む人かで、二極化する傾向があるんです。科学は、実際に何かをつくり出しているわけではない。起こっている現象そのものは、ネイチャーの中にそもそもあること。科学は、それを覗く方法です。
だから科学で解き明かせば説き明かすほど、自然の大いなる摂理に触れていくことになる。つまり、自分たちの自由意志ではなんともならない大きな流れがあることに気づくんです。そう考えると、起こっていることは自然そのもので、祈りも呪いも科学も、ただの外在化の違い、表現する言葉の違いなんですね。
先日、土星と木星がギリギリまで近づいたことが話題になりました。その前に同じことが起きたのは397年前のことです。397年かけて近づいて、397年かけて離れていく。そういう、ものすごい構図になっているわけです。
そこには人知では理解しがたいぐらいの動きがあって、しかもそれは、すでに決まっている。そうなった時に、元にある大いなる力そのものや大いなる構造そのものが自然の中で起こっていることなんだと思えば、畏敬の念と畏怖の念で向き合える。
だから宗教と科学が対立する時というのは、どちらも畏敬の念と畏怖の念を忘れているときなんじゃないかなと思うんです。本来的に宗教と科学が対立しているのではなく、宗教を自分のものだと勘違いした人と、科学を自分のものだと勘違いした人が対立している。
ビジョンもそうですね。今至るところでビジョンという言葉が使われています。ビジョンがないとか乏しいっていわれるけど、ビジョンをつくろうとしている時点ですでに間違っていると思います。ビジョンは本来、そこにあるもので啓示だから、その啓示に耳を傾けないといけない。
でも企業で「ビジョンをつくりましょう」ってなった時に「大いなるものに耳を傾けましょう」って言うと怒られるから、みんなつくっているふりをする。
でも、本当は聞かないといけない。
聞くって何かっていうと、このまま行くとどうなるのかということに対して、しっかりと遠くまで見ることです。関わっているすべての現象に注目し、あるべき姿になっていくのをただ見ていく。それはたぶん、祈りも同じなんじゃないかな。そういう意味でいうと、宗教も科学も祈りも呪いも、大した違いはなさそうな気がするなと思いました。
妖怪は、必ず自然の中から出てくる
杉下さんコロナが流行し始めた頃に、自然建築家の落合俊也さんと対談したんですけど、それが『すべては森から』という落合さんの本に収録されたんです。
その中で、今は森に住む妖怪への畏怖を感じられる世界じゃなくなっている。それはつまり、ウイルスに対してとても脆弱な社会をつくってきたということなんじゃないかと提案したんですが、今のお話を聞いて、あらためてそうなんじゃないかと思いました。
妖怪って森から出てきたり海から出てきたりするんですけど、これが大切なんですね。幽霊と妖怪がどう違うのかを考えるとわかりやすいんですけど、幽霊は怨念とか情念とか、主に人間と人間の間に出てきちゃうものなんです。でも妖怪は必ず自然の中から出てくる。山から来て家に住みついたりするわけです。
ウイルスの出どころは、多くはアフリカなどの密林です。HIVもそうですしエボラもそうでした。今回のコロナは武漢と推測されていますが、いずれにしても自然界からきていることは間違いありません。
人間は自然をコントロールできたと思って鉱物資源を採ったり農地にしたりして、さまざまな形で自然界に入り込んだわけですね。でもそれって、じつは魔界に入り込んじゃったのと同じことなんです。だから扉が開いて、妖怪が出てきちゃった。その妖怪が今回は「コロナ」っていう名前をもっているウイルスだった、っていうことなんじゃないかなと思います。
だからこれからは、なんでもやっていいという姿勢は見直して、適切な距離感の中でお互いの多様性を尊重していく姿勢に変わっていく必要がある。じゃないと人間はもう、滅びる方向に向かっているのかなと思ったりしますよ。
それはそれで、自然とのお付き合いなんです。「人間、そろそろ入れ替わってね」ということ自体が地球からのメッセージでもある。ただ、それが必要以上に早まったり、人間同士でいざこざが起こるような感じで進んでいくと、さすがに残念なので。だから、僕ら自身の存続っていうよりは、大いなる自然への畏怖を感じられるような生き方やあり方が大切で、この地球自体の未来がどうなるのかという視点で考えないといけないだろうなと思います。
西村最近、喜界島に行ってきたんですが、奄美大島で船の出港を待っている間に近くのカフェに寄ったら、そこにあった古い新聞に奄美大島の話が書いてあったんです。
奄美大島には「あの山」とか「あの海」っていう表現がないんですね。すべての山や海に固有名詞が付いている。だから「あの山」って言うと「どの山だ?」っていう話になって会話が成立しないということが書いてありました。
僕は、全部に名前がついているってすごいと思ったんですね。しかもそれが、昔の話じゃなくて今も続いている。そういう関係性の持ち方が実際にあって、今もある。
でも都会で暮らしているとあんまり山と触れあっていないから、全部「あの山」でいい、みたいなことになる。今の話ってつまり、そういうことに気づかなくなっているということなのかなと思いました。
無意識に使っている言葉や文化が、どういう意味を持っているのか
井上さん私は、みなさんのお話を聞きながら、アメリカでお世話になっている日系アメリカ人の友人たちのことを思い出していました。
彼らと話していると、自分たちが無意識に使っている日本の言葉や文化がどういう意味を持っているのかを思い出させてくれるんですね。たとえば「仕方がない」という日本語を、今の日本人は「諦める」という意味で使うんですけど、彼らにとっての「仕方がない」は「今はできない」っていう意味なんです。
自分たちの世代では、人権問題は解決できないかもしれない。でも自分の子どもや孫の世代には何か方法があるかもしれない。それを、できる手は打ちながら粛々と願っていよう、みたいな意味で「仕方がない」という言葉を使っている。そうすると方向性が全然変わってきますよね。じつは全然諦めていない。その感覚が、願いや祈りに近いなと思いました。
大いなる力を感じつつも、人間は大きい力に翻弄されてまったく何もできない存在なのかというと、そうではない。何かができると思って、そして諦めていないからこそ、祈っているような気もして。じゃあ何ができるんだろうとか、どんな方法でやればいいんだろうということを、ずっと模索しているんだと思いました。
エリザベス・ギルバートというアメリカの有名な小説家が、TEDトークの中で「ジーニアス」という言葉の使い方が昔と今では違うって話していたんです。
それによると、古代ローマではジーニアスは「精霊」のことを指していた。それが、次第に「才能をもった個人=ジーニアス(天才)」っていうふうに捉えられるようになったそうなんです。でもそもそもは、いろいろなところに浮かんでいる精霊が、そこにいる人を通じて表に現れてきているだけなので、その個人が天才っていうわけではないということですね。
それが畏怖の念なのかはちょっとわからないですけど、その謙虚さと、それにアクセスし続けようと努力することは日々大事にしたいなと思っています。
松浦さんそれにひとつ付け加えさせていただくと、本来は、その人がすごいんじゃなくて、その人に流れた英知がすばらしい。英知でも、愛でも、優しさでもなんでもいいんだけれども、自分が器としてどういうエネルギーを取り込んで流したのかという、そういう瞬間をその人は持っていて。そう考えていくと、これからの時代は固定化されたものじゃなく、流れているものとどう付き合っていくのかということが大事になるんじゃないかなと思いました。
手のひらにあると思うか、手のひらよりももっと大きなものだと思うか
塩瀬さん流れの中でっていうことだと、僕は熟練技の伝承の研究をしているんです。熟練者が持っている技をいかにロボット化するかというところから大学院での研究をスタートしたんですけど、近代産業の工場だと、言語化しやすい内容と言語化しにくい内容の両方が出てきます。ロボットには言語化しやすいものしかプログラミングできないので、伝承そのものについてもっと深く知りたいと思うようになって、長い時間をかけて技を受け継いでこられた京都の伝統産業の職人さんのところに通うようになったんです。
そうすると、工場とはスタンスがまったく違っていました。彼らは「この技は何世代も前の人から受け継いだもので、私たちは単なる乗り物です。だからそのまま次の人に贈るしかないです」って言うんですね。
技自体は、人からスタートしてはいるんだけれども、受け取った時にはすでに大きな歴史を持ってしまっている。この技は「贈与の集合体」として自分に回ってきたので、今度は自分がそれをそのまま次の世代に贈るだけです、っていうふうになっていたんです。
近代産業と伝統産業の大きな違いのひとつは、その技に対しての態度の違いです。要するに、自分の手のひらにあると思っているか、自分の手のひらよりももっと大きなものだと思っているか。自分たちがつくったと思うから、自分たちで壊していいと勘違いしてしまう。自分たちではつくれないものだと思うと、とても壊せないし変えられない。
たとえば、サステナビリティとか持続可能な社会って言うけれども、あれも人間の傲りの上に成り立っていると思えば、人間に都合のいい地球を守ろうとしているだけなんじゃないかと思うんです。
自然は別に人間のために何かしてくれないし、優しくもない。自然はそのまま自然としてあるだけで、人間は、先にある地球から少しお借りしているだけなんですよね。
でも、今の持続可能社会に対するセリフは、私たち人間が、今の暮らしを多少我慢しても許せる程度に持続させるにはどうすればいいか、っていうところからスタートしています。つまり、地球自体のことはそんなに考えてないんですよね。
この地球が誰のもので、誰にとっての持続なのかという理屈を、結局、自分たちの手のひらの中で考えてしまっている。つまり、自然との暮らし方や佇まいの言葉が受け継がれていないんです。それは、畏敬の念とはだいぶ違っててね。
だから、自然に対する怖がり方も、恐れっていう言葉の本来の距離の取り方とは少し違っている。本当は、死をも含めて自然の摂理の中で自分をどう位置付けるかなんだけど、何か酷いものに対するような怖がり方をしているんですね。みんな、自分の所有物として考え始めたところから「自然を大切に」と言い出してきたから、本来の「大切にする仕方」が根本的にずれているのかもしれないなと思います。
さっき有紀さんが話した「仕方がない」の「仕方」って方法そのもののことですよね。でも「仕方」がなくても、地球の資源が加速度的に消費されるという流れはそこで止まるわけではない。その流れを、ただ解決しないまま見守ったり佇んだり、そばにいることが大切になる。
今って、みんな「理由をまず説明しようとします」。なぜここにいていいのかとか、なぜこうしないといけないのかって。でも僕は、ただそのまま「ある」ことが、本当の「生きる」っていうことだと思います。理由を求めすぎる社会において、理由なく「居られる」ことの大切さを、もっとちゃんと問えたらいいのになと思っています。
心や体の傷は、自然にそのままで「癒えていく」もの
西村杉下先生は、まさにみんなが怖がったり恐れたりする医療の現場にいらっしゃると思うので、今の続きの話を聞きたいなと思うんですが。
杉下さん塩瀬さんの自然の節理の話や由佳さんのフロー(流れ)の話があったんですけど、もともと人間が癒やされる、癒えていくプロセスっていうのは、自然なプロセスなんですね。
「heal」という言葉は、今は他動詞で使われていますよね。マッサージを受けて「癒やされた」というのが今の使い方で、何かが何かを癒すという意味になっているんですけど、本当は、私たちの精神や心の傷、体の傷は、自然にそのままで「癒えていく」ものなんです。
かつては、そのナチュラルなプロセスをhealと言っていた。他動詞というよりも主動詞で、それそのものが癒えていくことがhealの語源だったんです。それを私たちが癒やせると勘違いしちゃったことで、何かあればすぐ「医者が治しましょう」とか「病院に来てください」っていうことになっちゃった。
私自身がアフリカの伝統医療から学んだ一番大きな点は、彼らは治すんじゃなくて癒しのプロセスをお手伝いしていたということなんです。薬草だったり温熱療法だったり、いろいろなまじないみたいなものも使うわけなんですけど、それは治るプロセスをみんながちゃんと覚えていくための学習なんですね。
たとえば朝、何時になったら起きてあそこの川に入り、次にあそこに移動してあの木の実を採って食べ、次にそこの毛を剃ってこうしてという、一種の巡礼みたいなものを教えるわけです。そうすると、みんなが自分で癒えていく。医者が治したのではなく、医者はアドバイスしているだけなんです。
そうすると、また病気になった時に、1回学習しているアフリカの人たちはこの木の実を採ればいいとかあそこの川に入ればいいっていうことがわかっているから、自分で治せる。つまり、自分で自分を癒やせる能力を持つんですね。科学的エビデンスがないとかっていう世界の話ではなく、ひとりひとりの満足、ビーイングの状態をちゃんとつくり出しているのがすごいなと。
そういうプロセスをしっかり理解して、自然の中にみんなの健康を位置づけられるような新しい医療システムや健康政策を考えないと、お金や技術があっても人は幸せにならないし、いずれは病気さえ治らないっていう世界が訪れちゃう。だから医療も見直したほうがいいという提案は、いろいろなところでさせていただいています。ナチュラルなプロセスをどうやって僕らがお手伝いできるか、そこはアフリカの伝統医は本当に上手だなと思いますね。
技術は、本来持っている力を覆い隠してしまう
ダイアログ・イン・ザ・ダークは、完全に光を閉ざした“純度100%の暗闇”での体験を通して、人と人とのかかわりや対話の大切さ、五感の豊かさを感じる「ソーシャルエンターテイメント」。これまでに世界41カ国以上で、800万人を超える人々が体験している
塩瀬さんそういう意味でいうと、「自然の大いなる声」も聞けるけど、自分の力も認めるという時には、「自分自身の気づける力」を自覚することも大事だなと思います。
技術は、その「自分自身の気づける力」を覆い隠してしまうんです。トイレを掃除するのが面倒くさいから、自動的に洗浄できるようにした。そうしたら、泡がすごくておしっこの色がわからなくなったから、化学センサーをつけて尿を調べ、体調管理をするようになった。本当なら、おしっこの色を見たら病気かどうかなんてすぐわかるのに。
技術でわざわざ情報を隠してから、もう一度その情報を手に入れるためにさらに技術で上塗りをする。つまり、本当は誰もが聞く力や感じる力があるにもかかわらず、覆い隠して自分自身を信じない状態にして、それに気づかないようにしているだけなんですよね。
ということは、自分たちが注意をそちらに向けられるかどうかによって、神の声が聞こえるとか、自然の声が聞こえるっていうことになる。そこの違いは、ただ単にその機微に気づけるかどうか。だからたとえば「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」のように、一時間、真っ暗な世界で過ごして屋外に出たときに、道路の反対側にいる人々の喋り声が聞こえるぐらい、僕たちの耳も研ぎ澄まされる体験は面白い。
その感覚に似て、僕たちが注意を向けさえすれば気づける動きや聞こえる音が自然の中にはたくさんあるんじゃないかな。それを端っから聞けないものと決めつけていたり、道具がないと手に入らないと思い込まされているだけであって、自分にもう一度立ち返ることが、自然の中で起きている機微に気づく最善の手段だと思う。
杉下先生の「自然に癒える」っていう話も、人間の中にもともとある自然、それ自体が戻る力を持っているということを信じるかどうかだと思う。そこが信じられないから、すぐに薬を飲むしすぐに手術で取り除くし、それができる人に代わってもらおうと頼もうとする。
外在化すべきではないものを外在化し、外在化すべきものを外在化しない。今は、そこの配分が間違ってしまっているんじゃないかな。だから、その刷り込みを取り除くという意味でも、今年ちゃんと問わないといけないと思うのは、最初に言った、「変わるべきもの」と「変わらないでありのままそこにあるべきもの」の線引きです。そこに丁寧に向き合っていけたらと思います。
深みのある自然との付き合い方を見直す価値と可能性
杉下さんさっき、奄美大島の山の名前の話がありましたけど、アフリカに至っては、1本1本の木に全部名前があります。
そして、そこまで細分化されて自然とお付き合いをしている世界と、十把一絡げ(じっぱひとからげ。いろいろな種類のものを、区別なしにひとまとめにして扱うこと)に「森」と表現する世界とでは、やっぱり自然とのコミュニケーションの深さがまったく違います。そういう深みのある自然との付き合い方について、もっと見直してもいいんじゃないかなと思いますね。
西村杉下先生に聞いてみたいのが、医師っていう立場から見た時の、深みのある自然との付き合い方の価値や可能性についてなんですけど。
エジプト医学部生への保健リーダーシップ研修(東京女子医科大学)
杉下さんじつは最近、学生にアマビエについていろいろ調べてもらって、レポートを書いてもらいました。そうしたら多くの学生が、アマビエから何を学んだかというところで「共感力」って書いたんです。これがすばらしいなと思っています。
つまりアマビエが流行ったとき、人々はアマビエを通じて伝えたい何かがあったわけなんです。だからそこで「アマビエなんて非科学的だ」とならずに、対話を通してそれが何かを聞き出せる、共感力をもつ医者が大切になってくるんですね。そうしたら「この分野の教育って全然ないですね」という話になり、新しく講義も開設することになりました。
共感力の大切さには、学生たちも気がついています。検査データを打ち込んで、何%の確率で何の病気かっていう世界だけではなく、患者さんが訴えていることをちゃんと聞いて共感を感じられる医師になっていきましょうという話はよくしていますね。
西村それがこれからは必要だ、みたいな感覚が杉下先生自身にもあるっていうことですか?
杉下さんぜひミラツクジャーナルの僕の記事も読んでいただきたいんですけど、死をどうやって感じるか、それをどうやってお手伝いできるかというところが、私自身の医療との付き合い方の根本にあります。だから呪いも、どうやったら人間が死を理解していくのかというプロセスのひとつだと思っています。
その点から考えると、医学教育はもっといろいろできるはずだと思います。アメリカではすでに「Art and Medicine」という新しい講義が始まっています。医学生が授業中にピカソの絵を見て、ピカソの細部、心理、そこにある描きたかったものをディスカッションするという対話形式の授業です。それこそがAI時代の新しい医学教育だということで、大学でもそういう講義を取り入れ始めています。
高齢化が進んでいますし、社会的弱者が増えていますから、医療とのお付き合いはどうしても長くなっていきます。そうなったとき、僕ら医師はただ病気を治すだけではダメで、支えていかないといけないんですね。もしそういう教育がなければ、病気は治せても支援者にはなれない医者が増える可能性があります。だから、そうならないためのシステムをちゃんとつくりたいというのが僕の夢ですね。
人間が培っていくべきなのは、全体を捉える力
西村それでは最後にひとりひとりコメントをもらって終わりたいと思います。
井上さん癒やすんじゃなくて癒えていくんだという話や医療システムをつくる話は、まさにそうだなと思いました。社会変容、特にイノベーションは、人間が「変える」と捉えられがちだけど、じつは私も、変えることはできなくて、「“変わる”をどうやって支えるのか」という話だと思っているんですね。
社会が変わっていくために、何か新しいものを現状の上にさらに追加していくというより、そこまでにつくられてしまったメンタルのブロックをどう解除していくか。あるいは個人が抱えていたり、多世代に渡って集合的に抱えているトラウマをどうやって癒えていく方向にもっていくかを考えるほうが、社会が変わるにはよっぽど近道なんじゃないかなと思います。
基調鼎談で、大室さんが「まるっと捉える」という言葉を使っていたんですけど、それと今の話は通じる気がしました。AIができないことってそういうところなんじゃないかなと思います。AIは、個別を捉えることはできるけれども、全体は捉えられない。人間がこれから培っていくべきなのは、やっぱり全体をどうやって捉えていくかということなのかなと思いました。
祈りには「にもかかわらず愛し続ける」力がある
松浦さん確か「heal」という言葉の大元には、wholeの「全体を包括する」っていう意味と、holyの「聖なる」っていう意味と、healの「癒す」という意味があって、その全部がひとつの語源から来ているっていう話を聞いたことがあるんです。つまり、本当に癒えるというのは、包括的に自分の中にある力や大いなるもの、聖なるものの声を聞くことで、しかもそれは全部、自分の中に流れているということなんだと思います。
有紀さんの「仕方がない」の話だったり、杉下先生のアフリカでさまざまな困難があった時に祈りや呪いや宗教が生まれたという話だったり、そういうことが全部、今日の話の流れとしてあって、そのうえで自分は祈りのひとつの側面として「にもかかわらず愛し続ける」「にもかかわらず感謝し続ける」っていう言葉が出てきました。
やっぱり外側がつらくなればなるほど、呪いや祈り、見えない力っていうものが出てくるものだと思うんです。でもそういうとき「にもかかわらず」大いなるものとつながり、感謝し、愛し続けられる力が祈りにはあるのかなと感じました。そして、そういう自分の声や自然の声により耳を傾けてみたいなということを、塩瀬先生のお話を伺いながら思っていた次第です。
バック・トゥ・ザ・ネイチャー自体がイノベーション
杉下さん由佳さん、すごいことを知っていましたね。「health」は、もともとは「holos」っていうギリシャ語から来ているんです。そこから「wholeness」や「whole」ができて、そこからさらに「holy」とか「heal」という言葉が派生していったといわれています。
僕らがhealthっていった時には、医学からどんどん切り込んで、臓器や血液の成分などに細かく分け、還元主義的に分解して治療をやっていきます。それは治し方としては間違ってないんでしょう。
一方で、健康になりたいという患者さん側からの要求は「私の自然治癒力をサポートしてください」っていうメッセージなんですね。これをちゃんと「Wholeness」、つまり丸ごと感じてあげられる人じゃないと、健康はサポートできません。そこが最近よく「ウェルビーイング」といわれるような世界のあり方なのかなと思っています。
そういった意味では、自然を感じられるような人、そしてそういう人たちが健康になっていくプロセスを自然の中でサポートできるようなあり方っていうのは、コロナ時代の今こそ求められていると思いますし、バック・トゥ・ザ・ネイチャー自体がイノベーションなんだろうなって最近は強く思います。
変わるべき姿を自分の中に求められれば、あとはその姿になればいい
西村じゃあ、塩瀬さんに締めを。
塩瀬さんはい。ありがとうございました。いや、めちゃくちゃ面白かった!
「センサリー・アウェアネス」というワークがあるんですけど、創始者の人が肺結核になり、都会では暮らせなくなって森のサナトリウムに行くんですね。そのときに肺の声をずっと聞いていたら、右肺を休めて左肺だけで呼吸できるようになったそうなんです。つまり、自分の体の声に耳を傾けることによって、自分の体の動かし方自体をコントロールできるようになった。
耳を傾けることが自分の体に対してもできるようになると「突き詰めると全体とつながる」ということになりますよね。それこそ宗教の原点的なところ、ヴェーダ教あたりまでいくと梵我一如し(ぼんがいちのごとし)、宇宙と自分は同一であるという話になるわけです。
ヴェーダ教の経典「バガヴァッド・ギーター」には神様がいっぱい出てきますけど、そこに書いてあるのは全部、神様同士の愛憎劇なんです。神様同士が愛し、憎み、恨み、怒っている。
ということは、たぶん人間が持っている感情と同じ感情を神様も持っていて、その構造は一緒なんだと思います。だから畏敬の念は外側にあるんだけど、自分の内側に耳を傾けても、じつは同じところに辿り着ける。それがつまり「自分に対する信頼」です。
さっきのイノベーションの話も、何か起こすためには外側から何かを持ってこないといけないとか、新たにつくらないとイノベーションは起こせないっていう強迫観念からスタートしているけれども、変わるべき姿を自分の中にちゃんと求めることができれば、あとはその姿になればいいだけなんですよね。
それは別に愛でも宗教でも、どんな言葉でもよくて「じつはみんな、やっていることは一緒なんじゃない?」ということを今日あらためて感じました。みなさん、全然違う分野からお話しされているのに、全部構造が似ていた。僕はすぐ構造でものを考えるのでね(笑)。
でも、この「構造が似ている」っていうのは、すごく頼りになると思うんですね。
みんな違うことをしている人なのに、ずっと一緒に話していられる。全然違うところからスタートしているのに、同じ考え方、同じ動き方、同じものの見方をしているっていうことは、つまり、そっちに向かって良かったんだという拠りどころになる。だから、このまま進んでいくと、本当に自然にあるべき姿になりそうだなっていう気がしてきました。
なので今日、このメンバーを選んでくださった西村さんに感謝の意を伝え、ここにみなさんが集まったことについても、畏敬の念をもってお迎えできたらと思います。ありがとうございました。
この記事は、ミラツクが運営するメンバーシップ「ROOM」によって取材・制作されています。http://room.emerging-future.org/
フォーラムシリーズでは、ミラツク年次フォーラムでの各セッションの様子を記事として制作・公開しています。2020年度のフォーラムは、全部で8つのセッションが行われました。
次回は、大阪大学の堂目さん、SPACEの福本さん、暮らし研究家の土谷さん、北海道大学の渡邉さんの4名と共に「いのちめぐる経済の可能性」をテーマに掘り下げた75分をお届けします。お楽しみに!
ミラツク年次フォーラム2020のプログラムは、こちらからご覧いただけます
ROOMの登録:http://room.emerging-future.org/
ROOMの背景:https://note.com/miratuku/n/nd430ea674a7f
ミラツク年次フォーラム2016-2019まとめ:https://scrapbox.io/miratukuforum2016-2019/