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意識的に変化を生み出していく時代。重要なのは思考の癖を外していくプロセス【ミラツク年次フォーラム2019】

フォーラム

毎年12月23日に開催している「ミラツク年次フォーラム」。一般公開はせず、1年間ミラツクとご縁のあった方々に、感謝を込めてお集まりいただく招待制のフォーラムです。

ミラツク年次フォーラムではお馴染みの井上英之さんと大室悦賀さん、そしてミラツク西村による基調鼎談。毎年必ずフォーラム冒頭で実施してきましたが、「ミラツク年次フォーラム2019」では初の試みとして2番目にご登壇いただきました。例年どおり、何も準備せず、何も決めずに始まりましたが、本フォーラム冒頭の基調セッション「私たちはどこからきてどこへ向かうのか」に大いに触発される形で、それらの内容と連動するように話が展開していきました。

身体性の重要性や物の意義、そしてトラウマとフローの話など、まさにセッションとセッションが響きあい、つながるようにして生まれた貴重なお話の数々。少々難解ながら、人間の本質に迫る内容となっています。基調セッションの記事と合わせてお読みいただくと、より理解が深まるかと思います。ぜひ合わせてご一読ください。

(フォーラム撮影:廣川慶明)

この記事は、ミラツクが運営するメンバーシップ「ROOM」によって運営されています。http://room.emerging-future.org/

登壇者プロフィール
井上英之さん
INNO LAB International co-founder / NPO法人ミラツク アドバイザー
2001年よりNPO法人「ETIC.」にて、日本初のソーシャルベンチャー向けプランコンテスト「STYLE」を開催するなど、若い社会起業家の育成・輩出に取り組む。2003年、NPOや社会起業にビジネスパーソンのお金と専門性を生かした時間の投資をする、「ソーシャルベンチャー・パートナーズ(SVP)東京」を設立。2005年より、慶応大学SFCにて「社会起業論」などのソーシャル・イノベーション系授業群を開発。「マイプロジェクト」と呼ばれるプロジェクト型の手法は、高校から社会人まで広がっている。2012~14年、米国スタンフォード大学、クレアモント大学院大学に客員研究員として滞在。近年は、マインドフルネスとソーシャル・イノベーションを組み合わせたリーダーシップ開発に取り組む。
大室悦賀さん
京都市ソーシャル・イノベーション研究所 所長 / NPO法人ミラツク アドバイザー
1961年、東京都生まれ。「株式会社サンフードジャパン」、東京都府中市庁への勤務を経て、2015年4月より、京都産業大学経営学部教授に就任。2018年4月から、長野県立大学(長野市)教授兼ソーシャル・イノベーション創出センター長。著書に、『サステイナブル・カンパニー入門』『ソーシャル・イノベーション』『ソーシャル・ビジネス:地域の課題をビジネスで解決する』『ケースに学ぶソーシャル・マネジメント』『ソーシャル・ エンタープライズ』『NPOと事業』などがある。社会的課題をビジネスの手法で解決するソーシャル・ビジネスをベースに、NPOなどのサードセクター、企業セクター、行政セクターの3つのセクターを研究対象として、全国各地を飛び回り、アドバイスや講演を行っている。

僕らもう出なくていいんじゃない?

西村僕のなかでは毎年、いちばん緊張感のあるセッションです。なぜなら、何も話すことを決めていないから。いつも準備したくなる気持ちとの戦いなんですけど、今年も何も準備しないできました。初めての方もいらっしゃるので、短めの自己紹介をお願いします。

大室さん大室といいます。毎年、井上さんと二人でよくわからない話をさせていただいています。正直にいうと、毎年何も考えてません。で、さきほどの基調セッションを聴いて「僕らもう出なくてもいいんじゃない?」って井上さんと話してました。

井上さんうん、真剣に話し合ってた。

大室さんと言いつつも、やらなきゃいけないのでやりますけれども。現在は長野県立大学で教員をしております。もともとはNPOの研究をしていましたが、だんだんNPOが嫌いになっていき、そのあとに社会起業とかソーシャル・エンタープライズあたりの研究を始めました。それもまた嫌いになり、今は普通に企業の研究をさせていただいています。

今年(2019年)一年、個にフォーカスを当てて、どういう個だったら社会をつくりかえるポテンシャルにつながるのかということをずっと考えていました。そして個と全体、つまり社会のイノベーションがどうインタラクション(相互作用)していくのかというところに寄っていったように思っています。

あと最近は、なぜ企業は存在するのか、なぜあなたは存在するのかという哲学対話みたいなことをいろいろな方とさせていただいています。それが、エネルギーをかなり使うんですね。なので、最近は完全にエネルギー欠乏症になっていまして、今日もどれだけエネルギーがもつかわからないですけど楽しいセッションにしたいなと思っています。どうぞよろしくお願いします。

「コンスタレーション」は重要なキーワード

井上さんみなさん、こんにちは。このセッションは10年以上やってるんですけれども、今年は初めて2番目の登壇になりました。そうしたら、さきほどの基調セッションがおもしろすぎてですね、客として非常に満足していまして、もうこのまま帰りそうなんですけれども。

さて、この場にいるみなさんにも、きっと一人ひとりのストーリーがあります。その一つひとつのストーリーには「メタストーリー」としての意味があるんですね。メタストーリーというのは、その話が、直接に自分の話ではないのにそこにメタ化した意味があるということです。別の人の話が自分のことのように感じられる。例えば杉下先生のアフリカの話のなかにも、自分に通じるいろいろなストーリーがあったのをみんなが感じていると思うんです。僕もそうでした。

短い自己紹介を試みようと思います。社会起業とかソーシャル・イノベーションという言葉が世の中にずいぶん定着しつつありますよね。一人ひとりが、自分が大切だと思ったテーマをプロジェクトや事業の形にする、非営利でもビジネスでもいいので、継続して取り組んでいくことを通じて、なんらかの課題の解決やビジョン実現の方法を世の中に示していく。それが社会起業とかソーシャル・アントレプレナーですね。

そして、誰かが始めたアクションに共感して動く人たちが出てきたら、それが一つの力になります。会計が得意だよ、テクノロジーわかるよ、宣伝大好き、一緒に汗流せるよ、そういう一つひとつが集まって形になって、これまでにない新しい社会のパターンを生み出していく。

これまでも、結果として社会が変わることはいっぱいあったと思うんです。例えば、不満が臨界点を超えると革命が起きます。地球環境だってこのまま放置すれば人類が滅んで、何億年もかけて元に戻るかもしれません。でもそれではあまりに犠牲が多くて困ると感じる人たちがいて、自分たちで新しい変え方を探し出し、意図して変化に導こうとしている。そんなふうに誰かや何かに任せるのではない、これからの変化のつくり方を実践し知見にしようとするのがソーシャル・イノベーションという分野で、僕は心惹かれました。そんな分野をつくりたいと思って、若手向けの社会起業のプランコンペを始めたり、慶應大学で授業群を開発したりしてきました。

また、「マイプロジェクト」っていう名前で全国に展開していますけれども、一人ひとりが始めた小さなプロジェクトを広げていこう、といった活動もずっとやっています。今はNPO『カタリバ』が「全国高校生マイプロジェクト」という名前で事業展開していたり、企業や行政でもマイプロをやってくれている人たちがいますね。

さきほどのセッションに少しだけつなげると“コンスタレーション(星座、配置、連なっているものという意味)”という大切なキーワードが出ていました。それが指すものは何かっていうと、例えばこの三人の立ち位置です。僕が立っていて、この二人は座っている。この関係性と、例えば僕が座ってからの関係性は違います。角度、高さ、位置関係。みなさんともそうだし、この三人の間でもそれぞれ違います。星座と一緒で、どこからそれを見ているかによって、立体的で非言語のシステムができあがっていくんです。

だとしたら、会社に行くたびに沈んだ気持ちになってモチベーションが上がらないのは、もしかしたら単に机の配置がよくないのもしれない。もし上司が、偉い人が座る席じゃなくて隣の席に座っていたらまた違うコンスタレーションになるかもしれない。そんなふうに無意識に起きている身体や感情の変化、考え方、マインド、自分の全体の動きは、コンスタレーションっていう言葉に代表されています。部分ではなくシステムそのものを見るっていうことがすごく大事なんです。

私っていう存在がここにいて、家族、友達、同僚や顧客など周りの人たちとの関係性があり、そして、仕事やプロジェクトなど何かしていることがある。そこに世界はあるんですね。例えば一冊の本を著者が書くことによってなんらかのインパクトが生まれる。著者のいる関係性のなかで、どんな背景でこの本を書き、どんな思いがあって、何を感じているのかっていうことは、仕事に当然現れるわけです。

つまり、適当でいいやと思ってやった仕事は、その適当さをもって、そのマインドごと相手に届きます。どうでもいいと思って淹れられたコーヒーを飲んだ瞬間、僕たちは必ず気持ちの温度が下がると思うんです。じゃあもし、すごく心を込めて淹れたコーヒーを「こんにちは」って笑顔で言われて出されたら?コーヒーの意味はまったく変わって、その人の一日はまったく変わります。そのとき、コーヒーを淹れるという仕事は、少なくともいくらかは世の中にインパクトを与えている。そして、それが他の人にも伝わり、再生産されることによって世の中が変化していくんですね。

個人の内面で起きていることが仕事や世の中に反映され、それによって全部が動いていつも変化している。そういう世界像に、さっきのセッションがいろいろな角度から光をあててくれたので、僕はもうこれ以上喋ることがないなと思っている次第です。

身体性と物化することの意味

西村なるほど、そういうことか。でもやりますよ(笑)。延長戦です。今、井上さんの話を聞いて僕のなかに出てきたのは“身体性”っていうキーワードです。身体があることで“私”がどこにいるのかが決まりますよね。つまりそれは、全部を一瞬で、同時にはできないということでもあります。今日この場にいながら、滋賀にいることはできない。この場に座りながら、ここに座る僕を後ろから見ることはやっぱりできないんですね。

今日ここにいる、っていう状況のなかで世界を見ながら、その世界をどう存続するのか。そこに対しての想像力を大きくすることはできないのかなと思いました。つまり、身体性が厳然としてあるなかで、どうやったら想像力を広げることができるのか。それは、ある種の身体性の拡張ということになるんじゃないのかなと思います。

もう一つ、これはまた全然違う話なんですけど、昨日ものすごい閃きがあったんです。そんなことも知らなかったのっていう、当たり前のことをこれから言いますね。

アナログの、紙の雑誌ってありますよね。それって時間も考え方も注ぎ込もうと思えばいくらでも注ぎこめるものだと思うんです。それなのに、これが簡単にコピーできるのがすごいと思ったんです。1部だろうが、1000部刷ろうが1万部刷ろうが、ほとんど変わらない同じ雑誌がいくらでもできる。それってすごいなと思って。

今まで僕は、目の前のものに対して自分がどう時間を使うかっていう仕事のやり方をしてきました。時間は決まっていて変えられないから、限られたなかで何をやるのかを選ばないといけない。だから、ぐっと踏み込んでみたらいい結果が出るなとか、知らないところに飛び込んでみたら新しいことが起こるなっていう感覚を大切にしてきました。

でも一つに注ぎこめば注ぎ込むほど、それが1万個にもなれるってすごいことだなと思ったんですよ。めちゃめちゃ頑張ったらそれが形になって残って、しかも増える。不思議じゃないですか。……すごく当たり前のことを言っている自覚はあります(笑)。でも僕のなかでは革命的な閃きだったんですよ。

井上さん聞きたいんだけど、ゆうや (西村)がその雑誌を通じて実現したいことってどんなことですか? 読み手にどうなってほしい?

西村例えばですけど、この間、ある雑誌で“余暇”についての記事を書いたんですね。昔、アリストテレスっていう人が『形而上学』という本の最初に「余暇は、哲学や科学、芸術を愛するために使うものだ」と書いていました。となると暇であればあるほどいいはずで、それがわかればもっと暇になろうという人たちが増えるんじゃないのかなと。だけど実際、世の中は暇じゃない。暇であることは悪みたいな考えもちょっとある。じゃあ、暇ってそもそもなんなんだろうっていうことを改めて考えて、やっぱり暇ってすごくいいものなんだっていう発見があった。それを伝えたいなと思ったんです。

でも、喋ることで伝えようと思うと1回に3分ぐらいかかるんですね。3分×1万人だと3万分もかかる。僕には暇の話だけじゃなく、ほかにもしたい話があります。つまり全部を一人ひとりに話すのは無理なので、じゃあ書くかということになる。そうやって一つの原稿をつくるんですけど、そうすると同じことを1万回やらなくてもいいようになるっていうのは、すごいことだなと思ったんです。

井上さんゆうやは、なんでたくさんの人に伝えたいと感じるの?

西村たくさんの人に伝えたいというよりは、自分がいいなと思ったものを毎回つくらなくてもよくて、しかも、それを簡単に人にあげられちゃうっていうのがすごいなと。

なぜ人は本を出すのか?

井上さん実は僕、今、本を書いているんです。でも自分が感じてることや経験してきたことを書いて本を出すのって、批判にさらされる可能性もあります。じゃあなんでわざわざ本を出すのかなって考えたときにちょっと思ったことがあったんです。

おそらく人間は、誰もがフロンティアに立ってるんですね。そして、その一人ひとりが経験していることには代表性があって、他の人にも似たような経験、似たようなニーズが必ずあるんです。暇について考えることにもなんらかの代表性があって、それを受け止めて喜ぶ人は必ずいる。でも同時に、誰のなかにでもあることなら、わざわざ出さなくてもいいんじゃないの、とも思う。

黙ったまま、自分だけが経験を積んでも人類的な情報のアップデートはされていって、DNAとして何かは残り、きっと進化して受け継がれていく。実際、多くの生物はそうじゃないですか。それなのに人間は、どうもそれを他の人に伝えようとしている。つまりこれってDNAに残すだけでなく、集合的生物として進化してきた人類は、先に行ってきた人が「この道をいったらこんな世界があったよ」と伝えることで何かを構築しているんじゃないかと思ったんです。

もちろん自分が特別であるとか、何者かであると示したくて本を書く場合もあるかもしれません。でも同時に、もっと奥のほうにある、何かに出会ったときの本源的な行動としてアーカイブしていくことにすごく熱くなる生き物なんじゃないのかなと。

西村僕は“物”になることの意味って今まであまり感じてなかったんです。むしろ別に物じゃなくていいじゃんと思ってた。だって物にしちゃったらそこで止まるし、物にしちゃったら環境負荷も大きい。だからオフィスもいらないし、資料だって全部デジタルでよかった。実際それで10年やってきたんですけど、なんか、物にするって全然違うんだなって思ったんです。

情報をただ伝えるだけであれば、確かにデジタルのスライドがあればいい。でも「私はこれでいく」みたいなものを伝えるときにはそれだとちょっと違う。「私はこれでいく」っていう物をつくって渡すことによって「ああ、あなたはこれでいくんですね」っていう身体性を伴ってくれる。

物化することって現代社会においてはすごく古い感じがしたり、そういう時代じゃないみたいな感覚があったりします。時代はデジタル、なぜならそのほうがいっぱい届くから、みたいな感じだと思うんですけど、物の価値って届くとかじゃないと思うんですよね。届くだけでいいんだったら、スライドでいいしYouTubeでいいしFacebookに書き込めばいいと思う。でも、それが物であることに意味があるんじゃないのかなとふと気づきました。それがなんなのかは、まだ全然わからないんですけど。

井上さんピーター・センゲさん(マサチューセッツ工科大学の教授。著書『学習する組織』などで知られる)は、システム思考やシステムアウェアネスを提唱された方なんですけど、自然のなかで全体感を感じることとか、頭だけじゃない感覚の部分を非常に大事にしているんですね。でもそういうことを話して伝えようするとやっぱり長くなる。

そこで大事にしているのがツールだと言っていました。自分が見つけてきたことをどうツールに落としこめるか。つまり、私という存在が見つけ、経験してきたものをツールにしたうえで誰かに渡すということです。もちろんストーリーやナラティブからたくさんのものを受け取る人もいますが、一方で、たとえそういうものを受け取らなくても、ツールを使うだけで思想を感じることもできるわけです。

たぶん、ゆうやの言ってることは、物に落としこむとそれとともに身体性も渡すことができるっていうことだよね。あとは、それを体験してみること。できあがった本を開いてペラペラ紙をめくることだけでも、体感知が得られる。そういうものも一緒に渡せるっていうことなのかなと思ったんだけど。

内臓がイメージをもてないと直感は働かない

大室さん最近、後天性の発達障害が増えています。その理由の一つがスマホやパソコンだと言われています。これって本来は物質的なものなんですけど、そこに質量感が感じられないんですね。例えば本なら、紙質が一つひとつ違いますし、読む角度や光の入り方によって見え方も変わります。フォントだってそれぞれ違いますよね。そういうことがスマホだと全然感じられない。

身体性がすごく大事だっていう話は今、いろいろなところで言われていることです。けれども実は僕、最近知ったのは、内臓が概念をもっているという内臓感覚の話なんです。体が感じているいろいろな情報は、従来は脳幹を通じて脳へ回って制御され、ある意味IoTのようなもので処理されていると考えられてきました。でもどうもそれが違っていて、内臓自体がイメージをもっていると最近の神経科学の世界では言われるようになっているんです。そして内臓がイメージをもてないと、直感がなかなか働かないということもわかってきました。イメージをもっているからこそ直感が存在できる。つまり、身体知っていうのが直感と直接関わってる、みたいな話まで進んでいます。

さっきの話へ戻すと、物質的な“物”っていうのは、実はそういったイメージを直接やりとりしているっていうことなんですね。だから、本をもつことによっていろいろなものを受け取ることができる。そこがすごく大事なんです。

さきほどのセッションで佐分利(応貴)さんが“共感”とおっしゃったんですけど、そこまでいくと、実はもう共感じゃなくて“共鳴”になってくるわけですね。共鳴は、間に何かが入るんです。井上さんと勇哉くんと僕は、直接はやりとりできないんですよ。間に何かが入って共鳴している。そういう身体知を含めたあらゆるものをイメージで統合していかないと、クリエイティブなものにはならないっていうのが最新の話です。さらにいうと、なぜそういうふうに複雑化するのかっていうと、見えない世界を見ようと思っても脳だけでは見えないからです。

脳には思考習慣っていうものがあって、フレームにするとすごくわかりやすくなるんですね。例えばみなさん「シックスシグマ(モトローラが開発し、主に製造業で使用されている経営・品質管理手法)」とか普通に使われると思うんですけど、あれは別に法律ではありませんよね。法律ではないけど、ああいうフレーム(手法)を入れた途端にわかりやすくなるから企業ではよく使っている。

僕は「ミラツク年次フォーラム2018」でアート思考の話をしたと思うんですけど、そうするとフレーム化して、みんなが一気にアート思考に飛びつくわけです。その時点で本質からはズレ始める。言葉っていうのは、いろいろなクリエイティブの邪魔をするんですね。

つまり脳は、身体性っていうものをちゃんと生かしておかないと簡素化する方向へどんどん動いていってしまう。最近知った心理学の用語で「完全認知欲求」っていう言葉があるんですけど、例えば今日、井上さんと僕の話や、さきほどのセッションをみなさんが聞いて、それを自分が知っている言葉に全部すり替えるっていうことが自動的にやられていくっていうのが脳の基本的な機能なんです。

逆にいえば、身体とイメージングを合わせることによって脳がフレームに飛びつく作業を止めていくこともできるわけです。だから本とか雑誌に何かを書くことはすごく意義があることで、おもしろい話だなと思って聞いていました。

“共鳴”することで波紋が続いていく

西村僕は言葉を扱う仕事をずっとしているんですね。ワークショップもそうですし、インタビューしたり、分析したり、文章を書いたり、全部言葉を扱っています。僕のなかの言葉のイメージは、波紋みたいなものを出しているんですね。この言葉を言えばそれでオッケーではなく、それによってどんな波紋が起こるのかが、言葉を使うということにつながっている。

そうすると、どんな言葉にするとこのセッションのテーマが表現できるかなと考えるようになります。例えばさっきのセッションだと海の話は絶対にしたい。アフリカの話もしたい。宗教やお寺の話もしたい。でも今はどうなんだ、みたいな話もしてみたい。そしてメンバーがこういう人たちだから、話自体はできるはずなんだけど、引っ張り方を間違えると全然違う方向にいく可能性もあるなと考える。で、僕のしたい話はこういうことなんだと考えて出てきたテーマが「私たちはどこからきてどこへ向かうのか」だったんです。そうしたらみんながそれを意識して、すごく満足感のあるセッションになりました。

今日は「未来への問い」っていうのを全体のテーマにしています。未来に対する問いってなんだろうか、っていうことをそこから前のセッションで見つけることができれば、僕は今日のセッションは全部つながっていくんだろうなと思っています。

さっき大室先生が言った“共鳴”っていう言葉ですごく納得しました。僕の勝手な解釈ですけど、間に何かが入ることによって波紋と波紋をつないでいくことができるんだなと。つまり僕は大室先生の波紋を直接感じてはいない。何かが起こったはずなんだけど、それをいちいち感じ取ってはいない。でもたぶんこうだよなとは思っていて、次に喋るときには、自分のなかになんらかの波紋を感じて喋る、みたいな。

つまり感知が自分側にあって、相手側にない。コミュニケーションをとるためには相手側にきっとこういう波紋が起こるだろうなと思いながら言葉を置いていくことになる。それがうまくいって噛み合った状態になると、ずっとこの波紋が続く。そういう仕事をここ十年やってきたんだなっていうのを、聞きながら思いました。

流れができると雑音やパターンを手放せる

井上さん僕が社会起業とかソーシャル・イノベーションみたいな話を始めたころから全然変わってない問いがあるんです。それは「“私”から始めよう」っていうことです。社会の話って、日本のメディアでいうと『文藝春秋』とか『中央公論』みたいに、わりと硬めで男性がオーソリティ側から情報を提供するようなものが多いんです。いきなり“WE(私たち)”から始めることがすごく多い。そうじゃなくて“私”から始める。世の中のことを考えるとき、そこには常に、“私”という存在が感じている身近な縮図がいろいろあります。

さきほどの杉下さんのフローの話がすごく大事だと思います。自分のなかの流れっていうのがみんなあって、これまで経験してきたいろいろなパターンを必ず繰り返しているんですね。そのうちの大きなものがトラウマです。

僕、半年ぐらい前におもしろい出来事があったんです。ある友人に、過去に住んでいたことのあるまちに久しぶりに行ってみるとすごくおもしろいよと勧められて、小2まで住んでいた埼玉県の大宮(現・さいたま市)に40年ぶりぐらいに行ってみたんです。それが実はトラウマに関係してくるんですけれども、いつも僕、繰り返し見ていた夢があったんですね。まちの景色があって、その先がどうなっているのかわからなくて怖いみたいな夢なんですけど、駅を降りて歩いてみたら、その夢に出てきた街角のいくつかが明らかに僕が行っていた小学校の校門近くの角の風景だったんです。

当時何が起きていたかって考えると、小2ぐらいだとまちの全体像が掴みきれてなくて、どこに何があるのかがわかってなかったんだと思うんですね。そのあとに住んだまちでは、自転車に乗って走り回ることもできたし、大人になってからは車も運転するようになったから全体がわかっているんです。つまり、身体に落ちている。でもわからないまま引っ越した大宮というまちの全体像は、インコンプリート、未完了のまんまになってたんですね。わからないままだったから、ずっーと体のなかで引っかかっていた。

だけど、大人になってもう1回歩いてみると、あの公園がここにあって、公園に対して小学校がこの位置だっていうようなことがわかってきて、そうすると身体の奥のほう、丹田の下あたりかな。歩いて確認できるたびに、体感として何かがスーッと抜けていく感じがしたんです。「え!あのクリーニング屋ここかよ!」とわかるとまたスーッと抜けていく。

さらに歩くと、すごく古い商店街に店が3軒並んでいるところがありました。もう3軒ともお店は潰れてたんですけど、その一つはよく見たら母と一緒に何度も行った八百屋さんでした。実はそのあと、いろいろなことがあって、僕には嫌な思い出がいっぱいできるんです。だから大宮にいた時期と引越してからのことは、僕のなかで暗黒時代的な役割に色づけされていたんですよね。でも、このことを思い出したときに体のなかに温かさを感じました。お母さんと、この八百屋さんに行くのが好きだったな、このまちとこの時間が大好きだったんだな、と思い出したんです。

そこでまた大きく何かが溶けて、やっと今の自分に、よりすっきりとつながる感じがした。これからどんな人生が送りたくて何が欲しいのかが見えてきました。いろいろな雑音や繰り返してきたパターンが手放せたような。なんかね、頭でどんなに分析していても出てこない何かが、久しぶりのまちを歩いてみるだけで出てきたんです。何かが溶けて、解消したような。そして、その夢も見なくなりました。

脳内で繰り返してきた自分の過去は、実際のまちに行ってリアリティと答え合わせをしたらかなり不正解だった。間違いがいっぱいあって、温かさやよかったこともいっぱいあったんだって気づいたのは大変なことで。もしかすると自分が不幸だと決めていた時期のこと、まちのこと、地域のこと、家族のことが実は頭のなかで繰り返しつくってきたパターンに過ぎないんじゃないか。それに気づいて手放すことができたら、ものすごく自由になるんじゃないか。思ってもみなかった新しい選択肢が見えてくる、というような。

トラウマとソーシャル・イノベーションって非常に重要な話なんです。個々が抱えてきたパーソナルなトラウマに、ファミリートラウマ、そして地域のなかのトラウマってあるじゃないですか。家族や近隣同士の争いとか、〇〇藩にいじめられた過去とか。日韓問題もそうですよね。

人は他人が主体となったトラウマってかえって許せないんですよね。例えば広島で原爆の被害を受けた当事者がアメリカを許すって、とても難しいかもしれないけれど、当事者であれば可能なんです。だけどおじいちゃんが被災していた場合、そのおじいちゃんの話を間接的に聴かされてきた孫がアメリカを許すのは、実はかなり難しい。なぜかものすごく腹が立って、許せないんですね。

パーソナルに起きていることと、家族に起きていること、そして地域や社会で起きていることの相似形はたくさんあります。そこで何かに気づいて、そのことを受け入れたり次にいくことができると、パーソナルに起きているのと同じような構図で起きている世の中の課題に対して大変なヒントがある。そういう縮図が僕たち一人ひとりのなかにあるように思います。

一人ひとりが違うということをまず認める大切さ

大室さん今のトラウマの話はすごく納得感がありました。実はさっき身体性の話をしたんですけど、あれは実はトラウマの研究にもなってるんです。トラウマの研究を僕がビジネス側に引き寄せて喋っていました。

たぶん人ってみんな、見えてる世界が違うんです。みなさんは今ここにいて僕らを見ています。でも実は、見えてる世界は全員、微妙に違っています。画家は、同じ対象を見てもみんなが違う絵を描きますよね。それは極端な話、見えてる世界が違うっていうことなんです。

僕が企業の経営者の方とお話していつも思うのは、「おもしろいな!」って思う経営者って僕らと全然違う世界を見ていると感じることが多いことです。なので、見えてる世界を求めるんじゃなくて、一人ひとりが違うとまず認めることがすごく大事だし、見えてる世界をもう少し広く、あるいはもっと深くっていうふうに変えることができたら、僕は社会は勝手に変化していくものだと思っています。

要は自分の思考の癖を外していくプロセスが重要なのではないかなと。そこに体動的、あるいは身体的な感覚っていうものがかぶさっていく。それができたらもっともっとおもしろくなるのかなと思いました。

井上さん「ソマティック・エクスペリエンシング」っていうトラウマ・ケアのメソッドをつくったピーター・ラヴィーンっていう有名な神経生理学者であり心理学者がいるんですけど、彼自身が交通事故に遭ったことがあるんですね。そのときの体験を本の冒頭で克明に記しているんですけど、そこにすごくおもしろいことが書いてありました。

彼は車にはねられてから、痙攣するんです。一方、救急隊員というのは基本的に体の痙攣をよくないものだと思っているのでなんとか止めようとする。体を固定しようとする。でも実は体の痙攣っていうのは、全動物に共通している非常に大切な身体の声なんです。痙攣することによって恐怖や怒りを放出する。だから、ちゃんと痙攣できるとその後のトラウマ(PTSD)は起きないらしいんです。彼は専門家としてそのことを知っていたので、この状況のなか、救急隊員にもなんとかコミュニケートして、意識的に体に痙攣させています。

人間は動物の一つとして、痙攣という、恐怖を感じたエネルギーを放出する生きるためのメカニズムをもっているにもかかわらず、あとからつけた知識によって、それがよくないものだとして抑えこんでしまっている。その結果、強いショックの伴う体験が身体に残ったままになっているんです。要は、それを意図して放出できるか、ゆるめて体本来の力を使えるのかが次にいけるかどうかの重要なキーになっている、みたいな話で。

今は気候変動だったり、大きな問題が世界中でたくさん起こっています。だからこそ全体性をもって、意識的に変化を生み出していく時代にきているんだと思います。僕たちが頭で理解している人間のメカニズムなんてほんの一部なんですよね。本当は自分の身体で起きていることも含めた広い情報のなかから、次の未来をつくっていくことができるんです。

西村ありがとうございます。今まででいちばん意味不明なところから始めたセッションでしたが、行き着いた先はこれまでと全然違うわけじゃなくて、でもちょっとだけ深いところにいったなという感じがしています。ただその分、僕には咀嚼が必要で。でもその咀嚼は、やりたかった咀嚼だなとも思います。ソーシャル・イノベーションに対して、ブルブル震えるみたいなアプローチもあるっていう話は、正直、咀嚼はしきれていません。でも自分にとってそれが何なのかっていうのを考えて、次に何をやるのかを決めていきたいなと思いました。

この記事は、ミラツクが運営するメンバーシップ「ROOM」によって運営されています。http://room.emerging-future.org/

次回ミラツクフォーラムに参加を希望される方は、ミラツクが運営するメンバーシップ「ROOM」にご参加ください。ミラツクフォーラムは、メンバー向けの招待制の会として開催されます。
ROOMの登録:http://room.emerging-future.org/
ROOMの背景:https://note.com/miratuku/n/nd430ea674a7f
NPO法人ミラツク では、2016~2019の4年間でミラツク年次フォーラムにおいて行われた33のセッションの記事を分析し、783要素、小項目441、中項目172、大項目46に構造化しました。詳しくは「こちら」をご覧ください。
平川友紀 ライター
リアリティを残し、行間を拾う、ストーリーライター・文筆家。greenz.jpシニアライター。1979年生まれ。20代前半を音楽インディーズ雑誌の編集長として過ごし、生き方や表現について多くのミュージシャンから影響を受けた。2006年、神奈川県の里山のまち、旧藤野町(相模原市緑区)に移住。その多様性のあるコミュニティにすっかり魅了され、気づけばまちづくり、暮らしなどを主なテーマに執筆中。