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沖縄には、世界を平和・調和に導く役割がある。株式会社レキサス代表取締役・比屋根隆さん【インタビューシリーズ「時代にとって大事な問いを問う」】

ROOM

シリーズ「時代にとって大事な問いを問う」は、ミラツク代表・西村勇哉がインタビュアーとなり、「時代にとって大事な問い」を問う活動をしている人たちにお話を聞くオリジナルコンテンツです。「ROOM」では、記事と連動してインタビュイーの方をゲストにお招きする、オンラインセッションを毎回開催しています。

ROOMオンラインセッション「ROOM on Zoom」
12月3日(木)18:30-20:30 at Zoom ゲスト:株式会社レキサス代表取締役・比屋根隆さん
詳細・参加登録: http://emerging-future.org/news/2337/

ROOMへの参加はこちらをご覧ください
http://room.emerging-future.org/

第6回は、西村と長年交流のある株式会社レキサス代表取締役・比屋根隆さん。沖縄に生まれ育ち「沖縄から世界に通じる事業、その事業をつくる人を育てて沖縄の自立経済に貢献したい」という思いを軸に大学在学中に起業。IT関連の事業や沖縄の次世代リーダーの育成などに取り組んできた方です。インタビューでは、「沖縄を世界に貢献する場所にしたい」という比屋根さんの背景から昨年立ち上げた「株式会社うむさんラボ」を通して伝えたい「世界の平和・調和に役立つ沖縄の可能性」についてお話を伺いました。

(構成・執筆:杉本恭子)

比屋根隆(ひやね・たかし)
株式会社レキサス 代表取締役社長
沖縄国際大学商経学部卒。大学在学中にITの可能性を感じ、学生ポータルサイト開発、企業向けの独自サービスを提供するIT企業を従兄弟とともに設立。1998年、独立して株式会社レキサスを設立。Web/クラウドサービス/スマートフォン向けアプリケーションの企画・開発・販売事業および投資・インキュベーション事業などを手がける。また「人材育成を通して沖縄県経済の自立と発展を目指す」という大きな理念のもと、2008年より、沖縄の次世代リーダーを発掘し育成するために、人財育成プロジェクト「IT frogs(現Ryukyufrogs)」をスタート。2017年9月に人財育成事業部門が独立、株式会社FROGSとなる。2018年、株式会社うむさんラボを立ち上げ、沖縄の未来共創デザインに取り組んでいる。

ネット黎明期、リアルタイムで読む
『The New York Times』に衝撃を受けて

西村初めて比屋根さんを知る人たちのために、簡単に自己紹介をしていただいてもよいでしょうか。

比屋根沖縄生まれ、沖縄育ちで46歳になります。大学4年生の頃に起業してから20数年、いくつかの事業を起こしてきました。最初はITの会社・レキサス、2つ目が人財育成の事業・Ryukyufrogs。2018年には沖縄の未来デザインにおけるリーダーシップを発揮する組織としてうむさんラボを立ち上げました。分野はバラバラですが、軸はずっと変わらないものをひとつもっていて。

沖縄をより良くして世界に通じる事業とその事業をつくる人財を輩出して沖縄の自立経済に貢献したい。そして、沖縄が世界に貢献する場所というポジションを築いて自分がそのプレイヤーになりたい。今後も、何かをやるときには僕は常にその軸を大切にすることを意識して生きていくと思います。

西村その軸がつくられていくプロセスを、学生起業をする前に戻って聞いてみたいです。そもそも、なぜ沖縄国際大学(以下、沖国大)に入ったんですか?

比屋根ふだん、恥ずかしくてあまり言わないんですけど、実はプロサッカー選手になるのが夢だったんです。

今でもサッカーをすることがある比屋根さん

ちょうど始まったばかりだったJリーグに入りたいと思っていて。当時、沖国大からJリーガー第一号が出たので、沖国大で活躍できればJリーグに近いんじゃないかと思って、スポーツ推薦で沖国大の短大・英文科に入学したんです。

ところが、いろいろあって大学1年生の後半にはサッカーへの情熱が冷めてしまったんです。短大は卒業したけれど「働く」というイメージがなかったのでしばらくはアルバイトばかりしていて。でも、自分の人生をもう一度考え直したいと思い、沖国大の商学部に編入してマーケティングを専攻しました。「せっかく大学に入り直したんだから何か楽しいことをやりたい」と思っていたときに出会ったのがインターネットでした。

1995年当時の沖国大には研究室などを除けば、学生が使えるパソコンはまだ5台くらいしかなくて。ある土曜日の朝、大学に行って初めてブラウザというものを立ち上げたんです。『The New York Times』のサイトのURLを打ち込むと、回線が遅いからつーっと画面がゆっくり出てくるんですけど、沖縄の朝の時間に『The New York Times』の記事が読めることにすごく衝撃を受けて、「すごい!」って思ったのを覚えています。

杉本ネットがない時代には、海外の新聞って1週間遅れくらいで届くものでしたね。

比屋根はい。もうひとつは、始まったばかりの『Yahoo! JAPAN』。まだディレクトリ型でいわばリンク集だったのですが、『Yahoo! JAPAN』の沖縄版をつくったら面白いんじゃないか」と思ったんですね。じゃあ、沖縄の大学生がほしい情報のリンク集を自分たちでつくってみよう、と。「居酒屋などのホームページをつくってお金をもらって、リンク集に入れさせてもらったらどうだろう?」というところからITの世界に入っていった感じですね。

SNSがない時代の大学生は、
研究室のドアをノックして人脈を広げた

西村学生時代に起業してからの話は何回も聞いたことがあったけど、サッカーの話は僕もはじめて聞くエピソードでした。

比屋根サッカーをやめた後は、いろんなアルバイトもしたんですけど、ある晩にライブハウスで音楽に目覚めて、自分で作詞作曲をしてテレビ局に売り込みに行ったりもしました。昔、自分が夢中になったものは形を変えて事業を通して関わりたいと思っています。だから、いつかスポーツや音楽に関わる事業も絶対にやることになると思っていますね。

西村『Yahoo! JAPAN』が始まった頃だと中学くらいなんですけど、中学の時にちょっとだけプログラミング、といってもゲームを少しいじる程度ですがやっていて、BASICとか。それが中学3年の時にインターネットに出会って、作ることから使うことに変わっていった気がします。当時ハマっていたカードゲームで海外の人と対戦しようみたいなことになっていって。ウェブサイトくらいは作ったけど、プログラミングというよりは切って貼るっていう感じ。

それで、朝4時半頃まで世界中の人たちとネット上で対戦して、仮眠をとって学校に行くみたいな毎日でした。今思うと、僕はネットでのコミュニケーションがすごく好きなのかもしれません。当時、比屋根さんがインターネットに出会ったのは大学何年生の頃ですか?

新聞といえば紙だった1990年代、オンラインで新聞を読めることは衝撃的でした。

比屋根編入してすぐ、大学3年生の頃ですね。県内の学生に特化したポータルサイトをひとりでつくりはじめたのですが、技術者がほしくて同じ大学の情報系の先生に「ゼミでプレゼンさせてください」とお願いして仲間を見つけて。その後、いろんな大学とつながりながら、「Student’s Communications」という任意団体を立ち上げて、大学周辺の居酒屋やバーのサイトを立ち上げてはポータルサイトに組み込んでいきました。多い時は50人くらいで活動していましたね。

西村今ならSNSを使って仲間を集められるけど、当時は全然状況が違いますよね。どうやってネットワークをつくっていったんですか?

比屋根ゼミでプレゼンをさせてもらった沖国大の先生に、名桜大学の情報系の先生を紹介してもらってアポを取り、同じようなゼミでプレゼンをさせてもらったんです。琉球大学には個人的につながっている人づてでメンバーを見つけて。そんな感じで、キリスト教短期大学、沖縄大学にもそれぞれ仲間をつくっていきました。今と比べれば、わざわざ訪ねて行って会わないと始まらなかったけど、当時はすごく楽しかったですね。

その活動のなかで、いわゆる社会との接点が増えていったんですね。1996〜1997年の沖縄は、「観光以外の産業をつくろう」「沖縄の自立経済を実現しよう」という流れができはじめていた時期で。今思えば20歳くらいだった僕は、その流れの真ん中にいた30代後半から45歳くらいの熱い経営者や起業家の方たちと、学生ながらにおつきあいさせてもらって「沖縄はもっとできるんだ」というエネルギーをたくさんいただいたことも今の事業の原点のひとつです。

沖縄を「コスト」で語られることへの強烈な違和感

比屋根同じ頃、ある経営者の方に横浜での営業に連れて行ってもらう機会があったんです。すると、営業先で「すでに都内にたくさん取引先があるから、沖縄の会社に発注するなら安いことがメリットなんだけど大丈夫?」と言われたんですね。

「同じものをつくるのになんで沖縄だと安くしなければいけないんだ?」って疑問がわいたし、ものすごく悲しいというか怒りを感じて。沖縄に戻ってから、いろんな経営者にその話をすると「沖縄単価っていうものがあって、東京で80万円だと沖縄では40万円だよ」みたいなことを当然のことのように言われたことが衝撃的な原体験になりました。

西村内容が同じなのに、そんなに劇的に価格が違ったんですか?

比屋根違いましたね。同時期に、沖縄県が観光産業に次ぐ産業の柱として「マルチメディアアイランド構想」というビジョンを打ち出していて。いろんな制度を用意して企業誘致をしていたんです。沖縄にいろんな企業のコールセンターができたのですが、その理由として「沖縄県が支援しているから家賃が安い」「通信補助がある」みたいな話が報道されていました。一方で、コールセンターで働く女性は「社員にはなれないし、手取りも10万円あるかどうか」とインタビューに答えていて。どこまで行ってもコストの話しか出てこないことに強い違和感があったし、しかも働いている沖縄の人は幸せそうには見えませんでした。そういう状況のすべてに、カチンと来たというのが正直なところですね。

レキサスを立ち上げたときは、「沖縄で全国に通じるようなWebサービスをつくれたら、東京と同レベルの年収を出せるし、逆に優秀なエンジニアが沖縄に移住してくれるんじゃないか」というイメージをもっていました。レキサスという社名は「琉球王国」の「レキオ」と「サクセス」を合わせた造語です。琉球王国の昔のように、自分たちで事業をつくって島から外貨を稼ぐんだ、成功させるんだという思いをこめています。

西村レキサスを設立してから約10年後に、沖縄から次世代のリーダーを生み出す人財育成プログラム「Ryukyufrogs」を立ち上げていますよね。人財というところに視点が移っていったのはどうしてですか?

比屋根レキサスを立ち上げて7、8年が経った頃、会社は安定しているのに人の出入りが激しかった時期があったんです。なかにはケンカ別れのようなかたちで去る人たちもいて。「何のために経営しているのか」「何のために沖縄でやっているのか」を自問しました。そのなかで、「沖縄のためにレキサスという機能を活用できないか」と考えるようになって。

「沖縄のIT分野をより良くしたい」から「“株式会社沖縄県”をどう良くしていくか」と、ひとつ高い視点をもつようになりました。自分が “株式会社沖縄県”の社長だとしたら、取り組むべきなのは人財育成です。今の常識にはない新鮮なエネルギーや価値観をもち、海外とも仕事できる尖った次世代のリーダーを育てようと、2007年に「Ryukyufrogs構想」を立ち上げました。

中学生から大学生まで約10名を選抜。6ヶ月かけて実施する人財育成プログラム「Ryukyufrogs」

Ryukyufrogsのメンバーたちは米・シリコンバレーも訪問する

半年間にわたるRyukyufrogsの集大成「LEAP DAY」で話す比屋根さん

当時は「人財育成なんて補助金でやればいい」という風潮が強かったけれど、 “株式会社沖縄県”の未来のリーダーを育成するためにも、民間の利益を未来に投資する文化をつくりたかったんですね。だから、Ryukyufrogsは1期目からずっと民間の協賛だけでやってきたし、今は70近い企業と団体に支援を得られるようになりました。OB・OGは100名近くなりますが、確実に沖縄の未来をより良くするプレイヤーに育っていますね。

沖縄は世界の調和・平和の役に立てる

西村レキサスの人財事業だったRyukyufrogsは、2017年に「株式会社FROGS」として独立。ずっと一緒にやってきた山崎暁さんが代表になられました。そして比屋根さんは、2018年に新たに「株式会社うむさんラボ」を設立されましたね。「もうひとつ、何かやってみよう」と思った背景を少し伺ってもいいですか?

比屋根これからの沖縄と世界を見て、どうやって“株式会社沖縄県”をより良くしていくかを考えると、ITと異分野を掛け合わせた事業開発が大事だと考えました。もうひとつは、ビジネスの手法を用いていろんなセクターを巻き込みながら、沖縄の社会課題を持続可能なかたちで解決していくことも必要です。特に、沖縄では貧困や教育という大きな課題があります。こうした本質的な課題に向き合っていかないと、将来に渡って負の連鎖を経つことができません。うむさんラボは、こうした社会課題×ITという事業構想、さまざまな事業開発、起業家支援などを推進する機能として立ち上げました。

「うむさん」は沖縄の言葉で「面白い、ワクワクする」って意味なんです。また「うむ」は「産む」、「さん」は「SUN」の意味も込めて。「ラボ」には「LOVE(愛)」と「LABO(研究所)」の二つの意味を込めました。これから県内、国内外問わずたくさんの人たちと大きな愛でつながりながら、研究所としていろんな社会課題解決の実験をしてみよう、と。そこから希望に溢れたワクワクするプロジェクトがどんどん産み出されていく「地球の子宮」のような島になれたらとイメージしています。うむさんラボのコアメンバーは、私以外はみんな県外出身の方たちです。沖縄の課題を解決して、沖縄をより良くしていくには、県外・海外での経験があってビジョンを共有できる方々の力も必要です。そこに沖縄の若い人材を入れていけば、プロジェクトが人財育成の場にもなります。そういう視点でチームメンバーを構成しています。

西村起業から現在の取り組みまでざっと伺ったので、そろそろ本題に入りたいと思います。このインタビューのテーマは「時代にとって大切な問いって何だと思いますか?」なのですが、比屋根さんが今という時代に「こういうことを考えた方がいいんじゃないか?」と思うことは何ですか?

比屋根ひとつは「何のためにこの時代に僕は沖縄に生まれたのか?」という問いです。東京に生まれても、アフリカに生まれてもよかったはずなのに、沖縄に生まれたのは意味があるんじゃないかと思うと、生きる理由も仕事をする理由も出てくるんです。これからは地方の時代と言われていますが、「この地域を良くするために自分は生まれてきたんじゃないか?」と思えると、いろんなものごとが自分のなかでポジティブになっていくと、僕自身の経験から強く思っています。

「今の時代」ということでは、沖縄は世界の平和・調和のためにどう役に立てるのか?ということを考えていて。世界がより良くなるために、世界の平和・調和のために僕自身に何ができるのか?を常に自分に問いかけていますね。

杉本「平和・調和」ということを念頭に置かれているのは、第二次世界大戦以降に沖縄が置かれてきた状況にも関わることでしょうか。

比屋根それは間違いなくあると思います。沖縄は15世紀から450年間、16世紀に薩摩藩の侵攻を受けてからも、あくまで琉球王国という独立国家として中国や日本と交易しました。明治の廃藩置県で首里城の明け渡しを命じられて沖縄県となりましたが、太平洋戦争では地上戦で多くの県民が命を落として。戦後から1972年まではアメリカの占領下に置かれていて、今も基地の問題を抱えています。

このような歴史的背景によって、沖縄には琉球、中国、日本、アメリカの文化が入り混じっているんです。それでも、普通にアメリカ人と一緒に飲んでいたりとかしているわけなので。そういう意味では、沖縄では無意識のうちに多様であることを「そういうものだ」と思っているところがあるんだろうな、と。文化的には琉球語でいう「チャンプルー(まぜこぜ)」なので、調和するのは当たり前じゃないかという感性が、沖縄のそもそもの特徴なんじゃないかと思います。同時に、戦争の体験や基地問題から、戦争は絶対に起こしちゃいけないという平和への思いも強くあります。

観光という「無意識的な教育」で
文化を広げていく

西村「沖縄が果たせる役割」を、ぐっと5年くらいのスパンに絞り込んでみると、そうすると、どういう役割が現れてくるかも伺っても良いですか?

比屋根それもやはり、平和・調和への貢献なんですよね。そのためにも観光産業自体をアップデートして、沖縄にしかない特徴、沖縄ならではの平和・調和を伝えるプログラムを用意するということかなと思っているんです。

ひとつは、沖縄に来るとみんなホッとしたり、安心したりするのはすごく素敵なことだと思っていて。たとえば東京の人たちは、沖縄でつながるとすごく仲良くなって、東京で会う以上の深さで話をするんですよね。これは、沖縄という場がもっている心をひらく、心を許す感じが、人の心の平和・調和に影響しているんじゃないかと思います。

たとえば、スキューバダイビングをするときも、ただ「青い海に潜りましょう」というのではなくて、「海の中という見えない世界には地上とは違う生態系があるので見に行きましょう」という事前のインプットがあれば、そこに対する学びは深くなります。地元の人たちとの交流や自然と触れ合うなかで、本質的に「人とは?」「心のあり方」とか、「人と人のエネルギーの状態」を感じたり学んだりしてもらうことを、ちゃんと意味づけして、新しいコンセプトの体験モデルをつくりたいですね。

うむさんラボでの「海遊び」のようす

杉本うむさんラボで取り組もうとしている「IT×観光産業」ではどんなことを考えておられますか?

比屋根うむさんラボでは、参加した人の心が豊かになったり、「多様性ってこういうことか」と思ってもらえたり、企業研修で来た人が「今度は家族で来よう」と思ってもらえる場づくりをしていきたいと思っています。たとえば、沖縄北部の海と森の環境のなかで過ごす3泊4日の親子向けプログラムに、東京、北海道、上海、フィンランドから家族が参加したら、すごく仲良くなって宗教や国籍を超えてつながる価値や意味を感じると思うんですね。そういう親子が持って帰りたいお土産は、これまでとはまた違うものになるはずです。

彼らのために、沖縄で体験した優しさや柔らかさ、平和・調和の気持ちを持って帰るようなお土産をつくれたら面白いだろうなと思っていて。たとえば、琉球ガラスを使ったLEDローソクをつくって、それぞれの家の食卓で点したときに、スマホの中の地球を通して「今ここでローソクが点滅しているね」というように沖縄を感じて平和や調和のつながりが見えるようにできたらどうだろうか、とか。今年は新型コロナウイルスの影響で動けませんでしたが、来年は新しい観光とテクノロジーを掛け合わせたモデルケースになるような体験プログラムを回してみようと話しています。

西村今までの観光は、観光する側も観光される側もお互いに受身的だったと思うんです。比屋根さんが考えているのは、もっと関わり合っていく観光で、無意識的な教育なんだなと思う。「勉強しよう」みたいに積極的になる必要はないんだけど、気がついたらいろんなことを学んでいる、というような。そしてそれは、文化を広げるということだと思う。「文化体験をしましょう」ではなくて、「文化を広げてつくっていこう」ということなのかなと思っていて。

先日、奄美大島の東にある喜界島にサンゴの研究所をつくった先生の話を聞いたんです。喜界島は40万年かけてできたサンゴ礁の島だから、研究者はたくさん来る。けれど島の人は全然サンゴに詳しくない。「それは何か変だ」ということで研究所をつくって島内向けにサンゴのプログラムをはじめたら、島の子どもたちがサンゴにめちゃくちゃ詳しくなっていくんですね。自分たちが暮らす島について外から来る人に教えられるようになると、観光に「観る」だけじゃなく「詳しくなる」みたいな要素が入っていくというか。

比屋根「沖縄がこの分野で世界に貢献できる」と、沖縄の人が気づくことが一番大事で。県民のワクワク感や学びを育むことによって、外から沖縄に来る人が沖縄のファンになってくれる。両方に価値があるということですよね。だから、県民に対してもメッセージを共有してコミュニティにしていくことが必要だと思います。

大きさでプレゼンスを示すのではなく
役割を果たすことで注目される道がある

杉本インタビューのテーマである「この時代に大切な問いを問う」に戻って改めて伺いたいのですが、比屋根さんは「今」をどういう時代だと捉えていますか?

比屋根いろんなものが問われていますよね。その土台にあるのは「どうやって地球と調和しながら関わっていくのか」だと思います。地球が壊滅的な状況になれば人類は生きられませんから。その前提に立って、人類が多様なものを受け入れて、それぞれにバラバラの個性をもちながら共通の目標をもって一つの方向に向かう、大切な時期なんじゃないかと思っています。

多様なものを前提に、地球や文明との共存共栄のためにできるだけ争いを減らしていくことをみんなで考えられる時代なんじゃないかな。そういう意味ではSDGsというのも、世界共通で会話できるのであれば、お互いの違いを受け入れるひとつのツールとして使えるのかもしれません。

私たちの子どもの世代では、世界はもっと小さくなっていると思うんですよね。そして、もっと深刻な問題がたくさん出てくると思います。もっとぎゅっと人間同士が近くなっていくなかで、ひとつにまとめるのではなく、ひとつの方向へと導ける感覚をもったリーダーが必要だし、日本人はそういう役割を果たせるんじゃないかと思っていますね。

Ryukyufrogsで半年のプログラムを終えたメンバーたち。彼らの未来にある世界は「もっと小さくなっている」

西村なぜ、日本人にはそういう役割を果たせると思うんですか?

比屋根明確な根拠があるわけではないけれど、沖縄にいると平和・調和をすごく感じますし、沖縄自体はその役割があると思います。日本に関しても、東洋思想が見直されているなかで、日本の文化にもその思想が根付いていると思うので。それを、日本人や沖縄の人が思い出して実践できるようになれば、自ずと世界の人たちから注目されるんじゃないかという感覚があるという感じですね。

西村たとえば今、世界から注目されるというと「大きくなろう」「プレゼンスを示すんだ」みたいな方向になりがちだと思うんですけど、それとは違う「役割を果たすことで注目される」ような道があるのかな、と。

比屋根そうです。大きくなることが正解ではない時代になってきたと思うんですよね。「個であり全体でもある」という感覚ーー「個」というのは個人、個性や地域だったりするのですがーー「個」であり全体とつながっているという感覚をもって、世界がより良い方向に行くように動ける人というイメージです。

西村そういう役割を果たす「人」がいることで、「あの人たちとなら何かできるんじゃないか」という意味での注目をつくっていく。

比屋根そうですね。「ああなりたい」と思ってもらうことで、「じゃあ、その人がいる日本ってどんなどころか行ってみよう」とか。まずは、沖縄でそういう実験をして、良いモデルができたら日本のいろんな地方の参考になるんじゃないかと考えています。

西村これまでは「もの」がベースの観光が主流だったと思うのですが、「ああなりたいから行ってみよう」っていうのはすごく面白いです。

比屋根「もの」よりもやっぱり「人」ですよね。たとえば今、実験的にやっていて好評なのは沖縄のユタ(シャーマン)のお孫さんが、子どもの頃に「おばあ」に聞いたすごく本質的な話を詩にして朗読したり、ミュージシャンとコラボセッションするというものがあります。10名くらいの人たちと2〜3時間かけてやるんですけど、話を聞いてすごく心が温かくなったり泣き出したりする人がいて。沖縄の「おばあ」の話をすることに、ものすごく価値があるのかなと思いました。目先のことではない本質的な話って世界共通だと思うんですね。

これからの地方にできる「観光」は
未来への希望という「光」を「観る」こと

西村文化は人々の日々の行動が蓄積された結果生まれたものなので、分解すれば「いろんな人が、何を考えて行動していたのか」ということになると思うんですね。「文化体験をしよう」というと蝉の抜け殻を見ることになって、実際に起きている文化そのものは鳴いたり飛んだりしている蝉そのものというか。文化に触れるには、そこで生きている人が何をしているかを見ることが重要なんだと、今聞いていて気づきました。

比屋根すごいまとめをいただいてありがとうございます。そうですね。本当に文化を体験するというのは、日々のことに関わっていくということですよね。

杉本観光は「光を観る」と書きますが、文化をつくる人たちの光を観るということかもしれませんね。

比屋根光は、希望だと思います。いろんな地域に行っていろんな人たちと触れ合うことを通して、これからの人類のあるべき自然との調和、自分の心との調和、多様な文化との調和、国籍を超えた調和を学んで、未来の希望をもつみたいな。その希望の光を見つけに行くのが、これからの日本の観光で。いわゆる田舎と呼ばれるところでできるすごく貴重な体験になるんじゃないかという考えが、今お話ししていて自分のなかで湧いてきた感じです。

西村もうひとつだけ聞きたいことがあって。比屋根さんが「自然との調和」と言っていましたが、それを感じやすいのは海の近くじゃないかと思ったんですね。海ってコントロールできないし、まとめて横に置いておくこともできなくて。「どうしようもないもの」のわかりやすい象徴だなと思います。海やその延長にある台風という、大きな自然との付き合い方と「自然との調和」って近いんじゃないかと思って、比屋根さんが感じる沖縄の人の自然との付き合い方について聞いてみたいです。

比屋根 今、僕は月に1〜2回、沢登りをしているんですけど、木も石も生きているし、流れている水もエネルギーになっていて、その循環とのつながりを感じることですごくリフレッシュできていると思うんですね。僕のなかでは、自然のエネルギーの循環ともうすでにつながっている。そのつながりを、科学的に見える化できたら面白いなと思います。

比屋根さんが撮影した海の写真をご提供いただきました

沖縄にとっての海はもう文化に近いですね。沖縄では「海に行って飲もう」みたいなのが普通にあって。夏はたくさんの人が家族や友人を連れてきて一緒に遊ぶんですけど、ああいうのもすごくいいなと思います。夕日が落ちていく海を前に自分の思いを語り合ったり、仲間の相談を受けたりする。疲れているとき、ぼーっとしたいときや考えごとをしたいときに行くと気持ちを切り替えられるし。沖縄の人は、海があるからバランスを取りやすいというのは無意識のうちにあると思います。

杉本誰もがそこにいていい場所として海があることは大きいだろうなと思います。京都だと鴨川に座って話したりしますが、東京に住んだときに「タダで座れる場所はない!」ということに衝撃を受けました。

比屋根沖縄の人たちがオープンマインドだと言われたりするのは、若い頃から何かあれば海に行く生活をするなかでアイデンティティが育てられて、「沖縄らしさ」みたいなものがどんどん刷り込まれているのかもしれません。東京のお客さんが来られたときもビーチパーティをするとすごく喜んでくれます。県外から来た人と開かれた場所に行って一緒に飲んだり食べたりできることも含めて沖縄の強さだと思います。

西村海の力をうまく表せるといいな。海って、砂浜のエリアで波打際との距離を自分である程度決められるのもいいなと思います。距離感をお互いにつくりあえるというか。

比屋根波の音もすごく落ち着くなあと思います。あと、夕日や朝日が海に反射する光も含めて愛おしいっていうか。朝はエネルギーをもらえるし、夕方は柔らかい気持ちになるし。

西村「海は青い、以上」とかじゃなくて、海のいろんな表情を豊かに語れる解像度をもっていることもすごく大事で、調和や平和という感覚にもつながっていくんじゃないかと思いました。

この記事は、ミラツクが運営するメンバーシップ「ROOM」によって取材・制作されています。http://room.emerging-future.org/

「何のためにこの時代に僕は沖縄に生まれたんだろう?」という比屋根さんの問い、ずしりと重く心に残りました。わたしは大阪生まれですが、「何のためにこの時代にライターとして生きているんだろう?」と仕事を軸に自らを問うことはあっても、「何のためにこの時代に大阪に生まれたんだろう?」と問うたことはありませんでした。大阪の歴史性や風土について興味をもつようになったのもライターになってから。しかも、そこに自らのアイデンティティを結びつけるというよりは、外から大阪を見ている感覚だったと思います。

ゆるぎなく自分の足元を問い続けることは、実は未来をつくることに一番近いんじゃないかな。そんなことを思いながら、比屋根さんと西村さんの対話を聞いていました。「生まれた土地」という、誰からも否定されないアイデンティティを足場にしていることが、比屋根さんが見ている「光」をよりくっきりさせているのではないかと思うのです。

次回のインタビューでは、『Forbes JAPAN』Web編集長の谷本美香さんのお話を伺います。また、がらりと違う視点からの「時代にとって大切な問い」を聞かせていただけそう。どうぞ楽しみにしていてください。

杉本恭子 ライター
京都在住のフリーライター。大阪出身。東京でさまざまなオンラインメディアの編集者を経験したのち、学生時代を過ごした京都でフリーに。現在は、人の言葉をありのままに聴くインタビューに取り組んでいます。Webマガジン「greenz.jp」シニアライター、「雛形」では徳島県・神山の女性たちにフォーカスした「かみやまの娘たち」を連載中。仏教が好き、お坊さんに詳しい。
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