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今ここにあるものに耳を傾けて、この世界に対する解像度を高めることが「未来を考える」ことに近い。株式会社貞雄 代表土谷貞雄さん 【インタビューシリーズ「時代にとって大切な問いを問う」】

ROOM

シリーズ「時代にとって大事な問いを問う」は、ミラツク代表・西村勇哉がインタビュアーとなり、「時代にとって大事な問い」を問う活動をしている人たちにお話を聞くオリジナルコンテンツ。シーズン2の6回目は、株式会社貞雄の代表であり、建築家、住まい・暮らしに関する調査をたくさんされている土谷貞雄さんにインタビューしました。

土谷さんは、無印良品のコミュニケーションサイト「くらしの良品研究所」などの仕掛け人。実は、わたしも当時のアンケートに参加し、その結果を楽しんでいたひとりだったので、その背景を聞かせていただいてとてもワクワクしました。何より、土谷さんはお話し上手でついつい引き込まれてしまい、うっかり本題の「時代にとって大切な問い」を聞きそびれそうになるほどでした……!

大海原のなか、あたらしい“島”に泳ぎつくたびに、新しいことを始めちゃう土谷さんの半生と、調査することによって世界の見え方が変わっていく面白さについて、たっぷり語っていただきました。

(構成・執筆:杉本恭子)

土谷貞雄(つちや・さだお)
株式会社貞雄 代表/コンサルタント、建築家、住まい・暮らしに関する研究者、コラムニスト
1989年、日本大学大学院理工学研究科建築史専攻修士課程修了。ローマ大学への留学や住宅不動産系のコンサルティングなどを経て、2004年に「株式会社良品計画」のグループ会社に入社し、「無印良品の家」(現・株式会社MUJI HOUSE)の開発に従事。2008年に独立し、住宅系の商品開発やWEBコミュニケーションの支援を行う。無印良品のWebメディア「くらしの良品研究所」「みんなで考える住まいのかたち」の企画・運営をはじめ、現代の暮らしについてアンケート調査やフィールドワーク、執筆活動などを行い、未来の暮らしのあり方を提案。住まいに関する研究会「HOUSE VISION」を企画・運営、中国での暮らし調査なども行ってきた。2020年より、北海道・ニセコで「都市未来研究会」を運営している。

日本の住宅はなぜこんなに美しくないんだろう?

西村本題に入る前に、その背景となる人生のお話を最初に伺っています。どの時点から始めるかはお任せしますが、土谷さんのストーリーを聞かせていただけますか。

土谷僕は建築史の大学院を出てからローマ大学に留学し、イタリアで5年間過ごしました。陽気な国だからすごく解放されたし、慣れない言語で外国人と話すことが、自分の主張を伝えるいい訓練になりました。違う文化に触れられたのも良かったと思いますね。

西村ローマ大学に学んだ後、現地で仕事していたんですか?

土谷現地の設計事務所に勤めた後、友だちと一緒に独立して仕事をしていました。30歳のときに帰国して、父が経営していた建設会社に入り、34歳くらいで父が亡くなって会社を継いだんですね。いろいろ面白いことを考えて新しい会社をつくって……。ちょっとした事業者気取りになるわけですが、38歳で会社が倒産しました。明らかに慢心の結果でしたし、本当に申し訳なくて叩きのめされました。

そのとき、会社のひとつに住宅会社があって、資生堂にMBO(management buyout)してもらって最悪の状態を切り抜けたんです。ただ、大企業の傘下でマネジメントするのは性に合わなかったし、面白くなかったので3年で閉じてしまいましたが、今となっては良い経験でした。

西村その住宅会社をMBOするとき、なぜ資生堂を選んだんですか?

土谷今は資生堂の連結から外れて社名も変わっていますが、かつては資生堂開発という不動産関連会社があったんです。僕らも、資生堂開発でも住宅をつくっていたという関係がありました。住宅産業以外のブランドと住宅事業をやることに意義を感じていたんですね。

資生堂を離れた後、自身の会社でM&A(Mergers and Acquisitions、企業や事業の合併や買収)を経験していたことから、不動産系M&Aのコンサルタントとして全国各地を訪ねるようになりました。M&Aの成功率は1割、10社中9社は倒産します。バブルが崩壊し、まさに日本中で倒産劇が起きていた頃ですからものすごい数の整理をしました。改めて、倒産することの厳しさを深く考えさせられましたね。

杉本もともと建築に興味をもたれたのは、ご実家の事業が関係していたのでしょうか。

土谷そうですね。子どもの頃から父の仕事をやりたい気持ちがありました。会社を継ぐなら建設会社のエンジニアを選ぶべきでしたが、デザインが好きだったので建築家になろうと思ったんです。建築がすごく好きだったから設計も好きだったし、施工も面白くてどんどん仕事にのめり込んでいきました。そのなかで、「日本の住宅ってなんでこんなに美しくないんだろう」と思ってつくったのが、資生堂開発に譲渡した住宅会社でした。この会社での仕事は、のちに「無印良品の家(現・株式会社MUJI HOUSE)」の仕事につながりました。

「無印良品の家」のはじまりに誘われて

杉本無印良品の家の立ち上げは2004年。土谷さんは、どういう経緯で関わるようになったんですか?


下段は2004年に土谷さんが入社した当時のポスター、無印全体として家のことを考えるということが大きなテーマになっていきました(MUJI HOUSE VISION Webサイトより。)

土谷不動産系のM&Aコンサルをしていたので、施工エンジニアをたくさん知っていたので、新しく住宅会社(ムジネット)を準備中だった良品計画に「マネージャーやスタッフを探すのを手伝ってほしい」と相談されたんです。その流れで「土谷さん、来ませんか?」と声がかかりました。ムジネットでなら資生堂開発でできなかったことをできるかもしれない。すごく大きなチャンスだったし、「これは運命だな」と思いました。

2004年12月に入社してすぐ事業責任者になり、最初のプロトタイプの販売準備に参画しました。ところが、いくらがんばっても一向に売れなかったんですよ。無印良品というブランド力もあるし、すごく話題にもなっているんだけどまったく売れない。展示場で建物を見せてお客さんと一緒に設計する注文住宅が主流だったなかで、16パターンのプロトタイプを売ることを目指すことはそもそも難しさはあったんです。

とはいえ、何百人から問い合わせがあり、多い時には無印良品の店舗にお客さんが200人も来ている。なのに、まったく売れない状態が何ヶ月も続きました。

西村もちろんゼロではなくて、買った人もいたんですよね?

土谷4ヶ月目にたった一人のお客さんが買いましたね。そのくらい売れなかったんです。理由はいろいろあるんですけど、まず住宅はやっぱり雑貨と違うんですよ。店頭でお客さんのささやきが聞こえるんです。「無印良品の家具はいいけど、家は壊れないのかな」「住宅事業は本気でやるつもりあるのかな?」とか。プロトタイプが敷地の形に合わないときは、僕らから断らなければいけないケースもありました。

僕ら自身も寄せ集めの非常にデコボコがあるチームでしたし、メンバーからガンガン責められました。さらに、一気に20社にフランチャイズ展開したので、参加したいろんな会社の社長たちにも「土谷さんの商品はここがよくない」「これを改善してほしい」と言われるわけです。今までは、僕がいろんな会社のコンサルをしてきたのですが、今度は逆に多くの方からアドバイスを受ける立場。ただ意見を聞きながら、改善も力を入れながらも、やはり当初考えていたプロトタイプを売るというコンセプトにはこだわり続けました。

杉本針のむしろに座らされるとはまさにこのこと、という状況ですね。

無印良品の家「窓の家」(無印良品の家Webサイトより。)

土谷辛かったですねえ。そうこうするうちに「商品が良くない。2番目の商品を開発しよう」と言われて、今度は僕がつくりました。2008年にグッドデザイン金賞を受賞した「窓の家」です。業界でも非常に話題になりましたが、これもやっぱり一向に売れませんでした。

すると、事件が起きたんです。「売れないのは商品が悪いのではなく、土谷が商品開発しているからだ」と。当時、僕はすでに役員でしたが、事業部から降りることになりました。そして、「土谷くんはちょっと外れていなさい。仕事はしなくていいから」と、会社のなかでぽつんとひとりだけの小さな“島”に左遷されました。

ユーザーを味方につけた”ひとり研究所”が大ブレイク

杉本”島”というのはひとり部署ですよね。そこでは何が起きたのでしょうか。

土谷それがですね、人生のなかでやっと行き着いたその島で、僕が大ブレイクするんですよ。時間だけはたくさんあったから、「みんなで考える住まいのかたち」というアンケートサイトをつくって、ひとり研究所をはじめたんです。「どうして家が売れないか」よりも「一体、みんなどういう暮らしをしているんだろう?」ということに興味をもったんですね。

最初のアンケートには、当時10万人の会員のうち1万人が参加してくれました。「きっと何十人かしか応募しないから、懸賞つけてもいいですか?」と言っていたくらいだったのに、とんでもないことになって会社は大変な混乱ですよ。それからアンケートを続けていたら、半年くらいで会員は80万人まで増えました。

杉本すごい。会員を増やすことにも貢献してしまったんですね。

土谷アンケートでは、たとえば「家族は何人で、靴は何足もっているのか?」とかなり詳しい質問をしていました。そして、「家族で6足」とか「ひとりで200足」みたいに、中央値から大きく外れた回答をした人に会いに行くんですよ。そこで聞いた話をもとに、「ものを持たない暮らし」と靴を6足しか持たない家族の話をコラムに書くわけです。営業部からは「我々はものを売っているのに、『ものを持たない暮らし』とはなにごとか!」とめちゃくちゃ怒られました。ところが、その記事を手にした人たちが無印良品に収納家具を買いに来るんですよ。
くらしの良品研究所時代、トークイベントに登壇する土谷さん。当時、たくさんのコラムを執筆されていました。

コラムを書くと、多い時は1日に200通くらいの返信がありました。「私の家はこんな間取りで、洗濯物はこうやって干していて」とものすごく長いメールを、間取りをメモしながらパズルを解くように読み込んでいく。みなさんのメールが面白くて必ず返信していたら、コミュニティもどんどん育っていきました。

調査をすること、情報の伝え方の大切さをすごく考えさせられて、ひとり研究所はどんどん進化しました。いろんなメーカーやデベロッパーからのオファーを受けて、コラボレーションするようになり、今度は「ひとり商品開発」を始めました。これもバンバン当たりましたね。そもそも、80万人の会員にメールマガジンを送っているわけですから、広告費は入るし、商品開発も成功するし、前の部署にいたときより利益を出すようになりました。

杉本土谷さんは、もともと暮らしの細部に注目して興味をもつ傾向があったんですか?

土谷ないです。左遷されなかったら今の自分はいません。だから、僕を左遷した社長には本当に感謝しています。机ひとつの島が、なんと僕の人生においては素晴らしいことだったかと思いますね。ただ当時は、1万人がアンケートに回答してくれて飛び上がって喜んでいても、誰も話しかけてくれない(笑)。うつむいて「ねえ、みんな。すごいよ」って言いながら、ひとりニヤニヤしていました。

ひとつだけ、僕がやったのはお客さんからの返信メールを、マネージャー以上全員に届くようにしたことです。「仕事の妨害だ」とも言われたのですが、会社は「お客さんの声を大事にしよう」と言っていましたし、本当に学びがあるので読んでもらいたかったんですね。それがやがて無印良品全体にとって大きな力になり、いろんな部門から「この商品が売れないんだけどどうしたらいいだろう」と相談がくるようになりました。

そうこうするうちに、住宅のほうも売れ始めました。やはり、住宅に安心感をもってもらうには、雑貨や家具よりもずっと長い時間がかかるんです。アンケートを通じて顧客に寄り添うなかで、本当に無印良品の家が欲しい人たちとのニーズが合うようになってきたのだと思いました。そんなある日、また会社に呼ばれたので「いよいよ役員復帰かな?」と思ったら、「もう辞めてほしい」と言われました。

会社から遠く離れて、島の農民になりかける。

杉本ええっ!? ユーザーからも、社内からも評価を得られていたのに、なぜ「辞めてほしい」と言われたのでしょうか。

土谷ひとりで勝手なことをして面白がって、いろんなデベロッパーとコラボレーションして。ひとり研究所が力をもちはじめてしまい、「ガバナンスがとれない」と問題になったんですね。「ひとまず六本木のけやき坂にある普段誰も使わない『MUJI STUDIO』にいなさい」と言われました。ところが、またそこで面白いことを考えてしまって、デベロッパーを集めて仕事をはじめてしまいました。

西村どんな状況になっても勝手に仕事が始まってしまう(笑)。

土谷そう、何がどうなってもはじまっちゃうんです。その場所を、夕方以降は学生に開放するようにしたら、だんだん授業が終わるとすぐ来るようになっちゃって。昼過ぎから学生だらけ、夜はイベントだらけになるわけですよ。そこから面白いことがたくさん生まれました。するとあるとき、大イベントでハチャメチャになっているときに、たまたま役員が現れて……。その件を含めてまた会社に呼ばれて、今度は「なるべく遠くへ行ってくれ」と言われたんです。

一同あははははは!

土谷「いろいろ問題が起きるから、近くにいないほうがいいよ」みたいな。それで、五島列島の福江島に行きました。半泊という、住民6人(当時)の小さな村で、廃校を利活用して集落の景観を取り戻す活動をしている仲間がいたので会いに行ったんですね。本当にめちゃくちゃきれいなところで、友だちも交代で来て一緒に棚田の開墾を手伝うようになるわけです。

土谷さんが「夢中になって過ごした」福江島。海がきれいです。

耕作放棄地だった農地をみんなで整備。

夜は浜辺で夕食。毎日がキャンプ生活のよう。

生活排水を自然の地形をつかって浄化するバイオジオフィルターを組み込んだ水田。

杉本落ち込んだりはしなかったんですか?それとも、ちょっと引いた目線で自分の状況を楽しんでいたのでしょうか。

土谷開墾を手伝っていたら「土ってこうなんだ!」って夢中になるし、汗をかいて泳ぐと気持ちいいし、釣りをしたら「わあ!釣れちゃった!」と、すべてが感動に包まれるわけです。もう会社のことなんか忘れちゃって、「いよいよこれで農民になるぞ」と思っていたら、「すぐに戻って来い」とまた社長から電話がかかってきて。

無印良品に創設当時から関わっている、クリエイティブ・ディレクターの小池一子さんを代表に迎えて「くらしの良品研究所」を開設するから、そこに入れと言われたんですね。2009年からは、くらしの良品研究所で暮らし調査やいろんな会社とのコラボレーションを本格的にやるようになりました。同時に独立して、他の会社の顧問もするようになり、それもすごく勉強になりましたね。

また、デザイナーの原研哉さんが発起人として始めた「HOUSE VISION」の活動にも参加、その後共同世話人となりアジア中を駆け巡ることになります。2013年に世界規模の展覧会「HOUSE VISION 2013 TOKYO EXHIBITION」が開催されました。最終的に、無印良品から完全に離れたのは2015年。10年以上、関わっていたことになります。

HOUSE VISION 2013 TOKYO EXHIBITION

2018年に中国・北京で開催した「HOUSE VISION 2018 BEIJING EXHIBITION」

2020年深圳国際家具展。2018年HOUSE VISION以降も、日本、アジアの建築家とのコラボレーションを続けている。

「今あるもの」を読み替えていくと、そこから見える未来がある

西村土谷さんのストーリーが面白すぎてもっと聞きたくなるのですが、そろそろ本題に入りたいと思います(笑)。今までの仕事を振り返ってみて、「そもそもこれがやりたかった」というのはどういうことですか?

土谷「そもそも」はわからないけれど、やっと今行き着いたのは「未来を考える」ということです。調査を通して、すでに今あるけれどよく知らないことを知る、読み替えていく作業をたくさんやったことによって、未来を考えるときの幅が広がったと思うんです。

よく、食べ物調査をやるんです。2021年1月に中国で実施した調査では、「昨日食べたもの」「お母さんがつくったもの」「最近成功した料理」「子どもが好きな食べ物」を聞いたのですが、主な3つが全部同じになりました。紅焼肉(ホンシャオロウ)という豚の角煮と、じゃがいも炒めと魚料理、ちょっと離れてトマト卵炒め。どこで聞いてもブレないんです。

土谷さんが中国で行った暮らし調査の結果。中国の人たちがどんなものを食べているかが見えてくる。

実際に、現地のご家庭を訪問して冷蔵庫を見せてもらうと、紅焼肉が入っていたりする。「ちょっと食べてもいいですか?」とごちそうになってみると、同じ紅焼肉でも家によって随分違うことがわかってきて、ひとつのものごとに対する解像度がどんどん上がってくるのが面白くてしょうがないんですね。

西村土谷さんのアプローチって、すごく横に広げていくんだなと思います。中国人の「昨日食べたもの」を知っていって、パイ生地みたいに薄く積み上げていくと、だんだん新しいものが見えてくるというか。

土谷まさにそういう感じ。こういう暮らしの話って、普通の人にとっては大して面白くない話ですよ。だけど、それを面白がって記事を書き続けていると、文化が浮かび上がってくる。薄く広げて積み重なったときに、すごい密度になっていくというか。人間の暮らしのなかにある一点を深掘りしていくなかで全体が見えてくるみたいなイメージをもっています。

西村土谷さんはけっこう現地に行って人に会って話を聞きますよね。

土谷仮説を立てるときは、現場に行くのが一番面白いです。たぶん、10年前より今の僕のほうが、洗濯物の干し方ひとつで想像力が広げられるし面白がれます。「もしかして、こういう理由でこの干し方をするんですか?」と聞いて当たっていると、その人もすごく喜んでくれる。洗濯物の干し方だけで3時間くらい話していられるわけです。

杉本洗濯物の干し方を言い当てられると、なんで嬉しいと感じるのでしょうね。

土谷結局のところ、調査は「深く知る」というコミュニケーションだと思っているんです。しかも、自分の意見を言わずに、100%相手に寄り添うスタンスで聞くという立場をとります。取材もそうですが、人はちゃんと聞いてもらえると気持ちよくなるんじゃないかと思います。

解像度高くものを見る力があれば面白いことができる

西村土谷さんは、たとえば「靴箱」とか「洗濯物の干し方」のように、誰の暮らしにもある一点を狙っていくので、何万人にもアプローチできるような広げ方ができるのかなと思います。すごく薄くて広いデータを積み重ねていくと、縦に積むとすごく分厚くなる。世界が今どうなっているのかを知る、新しい方法だなと思いました

土谷そう言っていただけるとありがたいです。どうしてもみんな、真ん中だけを見ようとするんですね。でも、中心ってすごくわかりにくいし、予想したものが出て来るだけなんです。たとえば、靴箱の商品開発をするときに、「家族で30足持っています」という平均的な人の話を聞いても何もわからない。ボリュームゾーンだけを見ていると想像力が出ないんです。

ところが、「ひとりで靴を200足持っている」という極端な人は、靴の手入れの仕方も収納方法もすごいわけです。そういう人に会って話していると「靴箱ってこういうふうにも考えられるな」と新しい視点が見えてくる。また、「靴箱」とのさまざまな付き合い方を知っていくと、自分の解像度が上がっていきます。ちょっと訓練は必要ですが、コツがつかめると非常に細やかにものごとを見れるようになるんです。

商品開発とは、調べたことを翻訳して商品にすることではありません。必ず、その翻訳には嘘が入ってしまう。そうではなく、とにかく「何になるか」なんて考えないで、僕らが「すごい!面白い!」と思うことだけを拾い上げて解像度を上げていく。そして、「解像度を高めた自分」が、新鮮な目で考えて商品を開発するということじゃないかなと思うんですね。「未来を考える」ということも同じです。未来なんてわからないのだけれど、自分の解像度を上げて、その場において新たに何かを提示することが「未来を考える」ことに近いと思います。

「受け止める」は創造的かつ積極的な行為である

西村今朝、本を読むことについて話していたんですが、「何かの役に立つ」というモチベーションで本を読むと面白くない方向に行ってしまう。そういう目的意識をもたずに読んでいると「なるほど、そういうふうに世界を見るんだ」という視点にどんどん出会えて、自分の世界の見方がちょっとレベルアップするという感覚なんです。

土谷そうそう、そんな感じです。また、良いフィードバックをすることも解像度を上げるきっかけになります。僕は、いろんな会社のコンサルをしていますが、よくみんなに文章を書いてもらいます。自分の新しい気づきをさらに楽しむには、感じた面白さを論理的に書くという作業が良いんですよ。

鍋を開発したい人には「この鍋でどんな料理をするかな?」と聞いて「シチューです」と言われたら、「野菜はどのくらいの大きさで切るのかな?」とどんどん聞いていく。そうすると、その人の文章がどんどん良くなっていきます。フィードバックは、答えをあげることでもないと思っています。答えを渡そうとすると、その時点で僕の方にも間違いが起きるだろうし。答えを出すためのプロセスを共有して、先に進むことよりもていねいに地面をつくってあげるわけです。

西村その解像度で進んでいくと、土谷さんはただ歩いているだけでも面白いものを見つけていける。結果として、一見よくわからない良い組み合わせの出会いがバンバン起きるんじゃないですか?

土谷どうかな。西村さんは面白い出会いをつくる天才だと思うけど。まあ、「面白い」と思えることがすごく重要なんだろうね。西村さんと出会ったのはキリン食生活研究所のWebサイト「未来シナリオ会議」でのインタビューでしたが、インタビューがすごいのは「私はあなたの話を聞きます」と宣言することで、誰にでも会いにいけることですね。

最近、僕らのコミュニケーションって聞くことだったんだと本当に思うんです。年齢も上がってきたので、自分の感情を相手にぶつけることがなくなって、全部受け止める側になってきている。これがとても創造的なことだと思っているんです。受け止めるということは、消極的ではなくてすごく積極的なことで、それによってコミュニケーションの質がめちゃくちゃ上がるんですよ。

杉本不思議なことに、インタビューなどで「ちゃんと聞けたかも」と思えたときは、まるで自分も話せた気持ちになることがあります。実際には、自分はほとんど話していないのに。

土谷わかるね。「この人の言っていることはこういうことかもしれない」とわかったとき、まるで自分が考えたような体感があります。聞いているときは、とにかく相手のことに想像を巡らせて、その人の情報も感情も全部乗り移ってもらうわけですよね。うまくいったときはすごい快感です。

どうすれば「手に掴む」ではなく「手放す」方法を手に入れられるだろう

西村今年2月、土谷さんは北海道・ニセコ町で、「人口減少社会において、どうやって持続可能な都市をつくれるのか」を考えていく、都市未来研究会を立ち上げられましたね。「都市未来研究会」って面白い名前ですよね。ニセコは人口5,000人の小さな町で、都市ではない場所から始まったわけじゃないですか。なぜ、東京でも札幌でもなくニセコでの研究会に、「都市」という名前をつけたんですか?

土谷都市から最も遠いからですよね。都市から都市を考えたら手がつけられないと思うけれど、都市から遠い人口5,000人の町でなら都市を考えられそうな気がしたんです。

西村順番としては「ニセコで何を考えたら面白いだろうか?」とい問いが最初にあって、「一番遠いところにある都市だ」ということになったんですよね。

土谷たぶん、そこには「これからの都市は一極集中型ではなく分散型になる」という仮説もくっついています。大きな都市を分解した小さなグリッドの最小モジュールがニセコであるならば、ここで凝縮して考えることがプロトタイプになるかもしれません。

まだ見えない未来をここニセコでつくるという壮大な実験にいまワクワクしています、大きな理想をかかげながらも、日々の活動は小さなことに意識を向けて、その小さなことを楽しんで生きていこうと思っています。

西村この活動の先で、土谷さんはどんなことを世の中に問いかけたいですか?

土谷今、僕は都市未来というテーマにはまっているんです。今の時代は、200年くらいかけて積み上げてきた社会のしくみが、逆回転しはじめている感じがするんです。成長ではなく撤退、集めるのではなく手放す、昇るのではなく降りる、というように。今まで当然とされてきたことの反対側を選んでいくんだよね。僕自身が、手放していくという生き方をもっと見つめていきたいと思っています。

どうすれば、欲望が現れたときにその欲望を殺すのではなく、新たなる「もうひとつの欲望」へと自分たちをもっていけるんだろうか。どうやったら僕らはそれを手に入れられるのかを、これから考えなければいけないんだろうね。

土谷さんがニセコで出会う風景を撮影した写真。季節の移り変わりがドラマチックに映し出されている。

西村僕は海に関する取り組みをしているので、46億年前に地球が生まれてから、自然と人間の関係を整理して考えてみたことがあるんです。およそ700万年前に人類が誕生して、自然と共生しながら暮らしていたのですが、約1万2000年前に農業革命が起きて人類と自然が別れるんですね。離婚をした、と捉えているんですけども。

その後は、季節の変化や天候による飢饉を克服する営みが、エンジニアリングから科学へと置き換わっていきます。そして今は、人類と自然がものすごく離れて困っているという状態、「どうすれば、もう一度仲良くさせてくれますか?」ということを一所懸命考えているのかなと思ったんですね。さきほど、土谷さんは「逆回転」と言われましたけど、今まで積み上げてきたものをつかって逆回転できるんじゃないかなと思っています。

土谷逆回転と言っても元に戻るのではなくて。スパイラル状に回転して同じところに戻ってきて、異なる位相で自然と再会するイメージです。2016年のHOUSE VISIONのテーマは「CO-DIVIDUAL 分かれてつながる、離れてあつまる」にしたのですが、個(individual)に分断された人間、都市と地域もまたつながる共同体であると考えたんですね。

ただし、それは昔の村のように固定された個人が共同体になるのではなく、流動性をもちながら共同体をつくっていくステージであって、「共同化する」ことを強く意識していくんだと思います。都市未来研究会でテーマとしている「コモンズ」も、既存のものではなくて新たにつくるなかで再びつながっていくものだと思います。

それは、自由になるのではなく、ある意味では束縛される、規律をつくるということです。ただ、ぐるぐる回りながら位相が上がって「規律をつくっていくことこそ創造的だ」という地点に戻るんだと思う。今、僕らが理解しようとしている自然は、外なるものだけでなく「内なる自然」というのもある。やっぱり、この目に見えないものと自分の身体や心を合わせていくことができそうな気がする時代になっているのかなと思います。

西村そうですよね。「戻ろう」ではなく「進もう」なんだけど、その進み方は直線ではなくスパイラル。「上に上がろう」でもなく、くるっと回って気がついたら上の階に行くというような進み方ですよね。それを、都市の真ん中ではなく、都市と一番遠いところから始められたら、自然にくるっと回って上の位相に行けるような進み方になるはずだということなのかなと思いました。

杉本最後にひとつ聞いてみたいのですが、建築家を目指していたときから現在に至るまで、ずっとつながっている興味の水脈はあるのでしょうか。

土谷若い頃は、建築家として有名になりたい、評価されたいという気持ちはあったと思うんですけど、建築家になりたかったのではなく建築をやりたかったんです。そういう意味では、暮らしの研究や商品開発で建築をつくっているので、建築家になっているのかなと思います。「建築をやる」ことのなかにいろんな役割があって、僕は僕にできることをやっている。なので、若い時よりもずっと建築家みたいな感じもありますね。

この記事は、ミラツクが運営するメンバーシップ「ROOM」によって取材・制作されています。http://room.emerging-future.org/

「波瀾万丈の人生」という言葉をついに使うときがきた……と心につぶやいたインタビューでした。土谷さんが、左遷された机ひとつだけの部署を「人生のなかでやっと行き着いたその島」と表現されたときには感動して、大海原に浮かぶ美しい島を想起してしまったのですが、その次のくだりで本当に福江島に行く展開!冒険譚を聞いているような気分になりました。

「未来を考える」というと、最先端のテクノロジーや科学のように、まだこの世界にない新しいものを追いかけるイメージがわきます。だけど、土谷さんが言われていたように「まずは今ここにあるものに耳を傾ける」ことによって、今この世界に対する解像度を高めたうえで、話をはじめていくことが、最も「未来」にふさわしい態度のように思えました。足元が見えなければ、歩みだした先にある道を踏みしめることもできない、というか。

次回は、デンマーク・ロスキレ大学准教授の安岡美佳さんへのインタビューをお届けします。どうぞ楽しみにしてください。

杉本恭子 ライター
京都在住のフリーライター。大阪出身。東京でさまざまなオンラインメディアの編集者を経験したのち、学生時代を過ごした京都でフリーに。現在は、人の言葉をありのままに聴くインタビューに取り組んでいます。Webマガジン「greenz.jp」シニアライター、「雛形」では徳島県・神山の女性たちにフォーカスした「かみやまの娘たち」を連載中。仏教が好き、お坊さんに詳しい。
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